※この記事の情報は、『週刊東洋経済』2020年3月16日発売当時のものです。
経済史家が語る“三菱”発展の真実
東京大学名誉教授・武田晴人
近世から続く三井、住友と違い、三菱は明治に入ってからの創業。岩崎家4代が経営を担い、戦前には国内最有力の財閥に成長した。土佐藩の貿易を請け負っていた一海運業者は、いかに企業を大きくしたのか。財閥史研究の第一人者、武田晴人氏が三菱の歴史を解き明かす。
三菱財閥の創業者として知られる岩崎彌太郎だが、実は実業界への進出にあまり乗り気ではなかった。明治新政府に出仕したいという願望が強かったのだ。
旧土佐藩の有力者、後藤象二郎へ「東京へ呼んでくれ」と何度手紙を書いても、聞き入れられない。周囲の勧めもあって、やっと実業の道に入ることを決める。それが1872年につくった「三川(みつかわ)商会」だ。これが民間企業としての三菱グループの創業といえるだろう。
三菱グループは彌太郎が九十九(つくも)商会を設立した70年を創業年と位置づけているが、学術的に見ると疑問である。九十九商会は土佐藩で貿易担当の役人だった彌太郎が、明治政府から藩営の商売を禁じられた藩の代わりに、ダミーとして設立した会社だった。
「三菱商会」を名乗り、東京に進出したのは1874年のこと。この年、三菱が飛躍する好機が訪れる。政府の台湾出兵に伴い、政府から軍事輸送の仕事を依頼されたのだ。もっとも、三菱がこの仕事を請け負ったのは「棚ぼた」だった。政府は実績のある米英の海運会社やほかの国内大手に輸送を任せるつもりだったが、次々と断られる。そこでやむなく三菱に仕事を依頼した。政府の支援を受けたことで、保有する商船は増え、航路の運航にも多額の助成金がついた。
飛躍を支えた別会計
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