※この記事の情報は、『週刊東洋経済』2020年3月16日発売当時のものです。
1875年、三菱が本格的に近代的なビジネスに乗り出した頃、慶応義塾からある青年が採用された。
その人物の名は、荘田平五郎。岩崎彌太郎、彌之助、久彌の3代にわたって三菱の経営の中枢を歩んだ荘田は、三菱合資会社理事長や日本郵船、東京海上保険のトップを歴任し、「三菱の大番頭」といわれた人物だ。
1847年、荘田は現在の大分県臼杵市に生まれた。藩校で学んだ後、慶応に入塾。福澤諭吉から目をかけられるほどの俊才だったという。卒業後は慶応で教師を務めたのち、諭吉からの推薦や、慶応の後輩で彌太郎のいとこに当たる豊川良平からの紹介もあり、三菱に入社した。