一故人

​橋田壽賀子—家族のドラマが書けたのは家族を知らなかったから

『おしん』や『渡る世間は鬼ばかり』など幾つもの話題作を手がけた橋田壽賀子。彼女の脚本家としての原点やその後の軌跡を、今回の「一故人」は描き出します。

夫の遺産でのんびり余生を送るつもりが……

橋田壽賀子(2021年4月4日没、95歳)は、人生で少なくとも2度、脚本家をやめようと思ったことがある。1度目は1966年に結婚したときだ。41歳にして、4歳下のTBS社員・岩崎 嘉一 よしかず と結婚した彼女は子供を産んで専業主婦になるつもりであった。それというのも、脚本家で一生食べていく自信がどうしても持てなかったからである。

しかし、一向に子供ができる気配はない。家庭を大事にしようと思っても肝心の夫は毎日帰宅が遅く、ほぼ家にいない。家事は好きだったが、これでは退屈してしまう。そんな彼女を見かねて、夫と出会う以前から一緒に仕事をしてきたTBSのテレビドラマのプロデューサー、石井ふく子が再び脚本を書くよう勧めてくれた。

ただし、夫からは結婚するときに「俺は脚本家と結婚するつもりはない。俺の前では絶対に原稿用紙を広げるな」と言われていた。その約束を守った上で仕事を再開する。毎晩、夫の帰宅する時間を見計らうと、原稿用紙を片づけ、食事の準備に取りかかった。生活費も夫の月給を超えないようにして、慎ましい暮らしを心がけた。《「外出するような暮らしじゃないから」って、先生、ご自分で前髪をハサミで切ってましたよね。美容院に行かずに》とは、同じく脚本家の内館牧子の証言だ(『潮』2002年10月号)。内館は会社員をやめたあと、脚本家になろうと橋田宅へ弟子のように通っていた時期があった。

橋田はこうした生活を、書いたドラマが次々とヒットし、収入が夫の給料を上回るようになってからも続けた。原稿料は貯金し、のちに夫が55歳で定年退職して制作プロダクション兼橋田の個人事務所をつくると、全額渡して管理を任せた。自分で稼いだ金が自由にならず、あくまで主婦業を優先させなければならないとは、何とも窮屈に思えるが、橋田にはそれが楽しかったという。仕事に関して思わぬメリットもあった。まず何より、夫の給料で最低限食べていける保障があるので、仕事での自由度が高まった。食い扶持を稼ぐため、わざわざ頭を下げて仕事をもらう必要がなくなったのはもちろん、自分のペースや意に沿わない仕事も容易に断れた。また、プロデューサーから納得のいかない文句をつけられても、「降ろされてもいい」と腹をくくって、喧嘩ができるようになった。

あるとき、プロデューサーとやり合った末に向こうが折れて、自分の意向が通り、高視聴率をとれたことがあった。《こうなると仕事が楽しくなり、さらに一生懸命になる、一生懸命書くとなぜかドラマが当たる、当たれば、次には思い通りのものが書かせてもらえる—と、だんだんイイ感じのサイクルができあがっていきました。本当に、[引用者注:夫の]月給袋のおかげでねえ。(笑)》と本人はのちに語っている(『婦人公論』2011年1月22日号)。

2度目に脚本家をやめようと思ったのは、夫が1989年に60歳で亡くなったときである。生前に株式の取引をしていた夫は、大量の株券を遺していた。橋田はそのまま持っていたかったが、石井ふく子から「いますぐ売りなさい」と言われ従う。時代はバブルのピークとあって、売却すると総額2億8000万円にもなった。石井は株のことをわかって指示したわけではなかったが、結果的に一番いいときに売ったことになる。金利もいまより高く、銀行にそっくり預けておけば、その利息だけでおそらく自分1人くらいなら何もせずに暮らしていけると思われた。仕事をやめて、締め切りに追われることなく、のんびり余生を送ろうという考えが橋田の頭をもたげる。

だがそこへ、故人の遺志を尊重して財団をつくったらどうかと、夫が世話になったTBSの人から提案される。橋田も、夫が生前に「おまえが死んだら『橋田賞』をつくる」とよく言っていたのを思い出した。半ば冗談として聞き流していたのだが、どうやら本気だったらしく、周囲の人にもちょくちょく漏らしていたらしい。それは、毎年、新人の脚本家やテレビでよい仕事をした人、すぐれた番組に対し、財団から賞金とともに賞を贈ることで、世話になってきた放送業界に恩返ししようという構想であった。

それでも、財団なんておこがましいような気がしてためらっていると、石井から「嘉一さんはいつもあなたの名前が残るものをつくりたいって言ってた。ほかのことになど使ったら化けて出るわよ」とダメ押しされて、ついに「橋田文化財団」の発足を決意する。

だが、財団法人を発足させるには基金として最低3億円が必要で、彼の遺産だけでは足りない。そこへTBSが不足分を貸してくれると申し出てくれ、担保として1年間の連続ドラマを書く条件を提示された。いわば“借金のカタ”として作品を書かねばならなくなったおかげで、橋田は仕事にとどまったのである。

当時は恋愛をテーマにしたトレンディドラマの全盛期だったが、橋田と石井は30代で出会って以来、ずっと家族のドラマしかつくってこなかった。2人でタイを旅行しながら構想を練った末に、夫婦と5人の娘が織りなす家族のドラマにしようと決める。「好きなことをやって当たらなかったら、もう老兵は去るのみね」と一緒に引退も覚悟で取り組んだ。こうして翌1990年に放送がスタートしたのが『渡る世間は鬼ばかり』である。同作はいざ始まると好調な視聴率を記録し、シリーズ化されるにいたった。橋田文化財団も1992年に発足して以来、毎年、橋田賞がテレビ関係者に贈られている。

一貫してホームドラマを書いてきた橋田だが、本人はどんな家庭で育って、脚本家になったのだろうか。ここで振り返ってみたい。

家にいない父と過保護な母

橋田壽賀子は1925年5月、当時、日本の植民地だった朝鮮の京城(現在のソウル)に生まれた。子宝になかなか恵まれなかった両親が、結婚7年目にして儲けた子供だった。橋田が10歳になるころ、母親から大阪・堺に住む伯母の家の近くに住むからと言われ、一緒に引き揚げる。父はなぜかソウルにとどまり、ひと月に1回、堺の家に顔を出すぐらいだった。当時の橋田にはその理由がわからなかったが、どうやら母とは別の女性と深い仲になっていたらしいことを父が死んだあとに知る。

ほとんど家にいない父に対し、母親は橋田を溺愛した。娘が一人っ子で可哀想だからと、近所の子供たちに菓子や文房具をあげて家に呼んだりするのが、橋田は子供心にいやだった。彼女が長じて高等女学校に入ると、母は卒業したら結婚させるつもりだった。そこから逃れるべく、黙って東京の日本女子大学校(現・日本女子大学)を受験して合格する。それを知った母は上京させまいと、東京へ送るはずの布団をズタズタに切った。

大喧嘩しながらも上京し、当時は専門学校だった4年制の日本女子大に入学したのは戦時中の1943年。終戦を挟んで卒業すると、両親の決めた縁談から再び逃れるため、早稲田大学文学部に進んだ。当初は国文学者になろうと国文科に入ったが、歌舞伎に興味を抱いて、先生に頼んで芸術科演劇専攻に移った。このころ、脚本家の久板栄二郎のシナリオ塾にも通っている。

大学在学中、松竹の大船撮影所脚本養成所を受験する。試験は1000人が受験会場に殺到する難関だった。そのなかで橋田は採用された50人の枠に入る。それから1年間、月給をもらいながら脚本を学び、最終的に松竹の脚本部に採用された。その年、1949年の新人6名のうち女性は橋田だけで、松竹では初の女性脚本家だった。それだけに入社時には週刊誌や新聞から取材を受け、注目される。

このときも母が干渉してきた。入社を前に、大船撮影所宛てに「我が家の跡取りである娘を映画のようなやくざな社会に入れるわけにはいかない。不合格にしてほしい」と手紙を送ってきたのだ。しかし、どうしても入社したい彼女のため、所長の城戸四郎が一計を案じて、堺の実家から通える京都撮影所に配属してくれた(同時に大学を中退)。もっとも、実家に戻ったものの、2日もせずに母と口論となり、撮影所近くに下宿することになった。

旧態依然とした映画界からテレビの世界へ

こうして母の反対を振り切って入った映画の世界だが、そこは完全な男性社会で、「女にラブシーンが書けるか」「女のくせに映画の世界に足を突っ込むなんて」などと脚本家や監督に言われるのは日常茶飯事だった。脚本もすぐには書かせてもらえず、若手はベテラン脚本家に内弟子として入門し、一から学んでいかなければならなかった。そのときも、男性の同僚が脚本の下書きをしているのに、橋田だけは家事や犬の散歩などをやらされた。

旧態依然とした京都撮影所に嫌気が差し、自ら何度も頼んで大船撮影所に異動させてもらったが、結局、脚本はほとんど書かせてもらえなかった。たまに書いても、完成した映画を観ると、誰が書いたのかと思うほどセリフが変えられていた。映画の世界にほとほと愛想が尽きた橋田は、脚本部から秘書室に異動を言い渡されたのを機に、1959年、10年勤めた松竹を退職する。母はその4年前に亡くなっており、父も彼女が退職した翌年にこの世を去った。

映画業界に見切りをつけた橋田が活路を見出したのは、まだ草創期にあったテレビの世界だった。ツテもほとんどないなか、テレビ局に通っては原稿の売り込みを続けて3年、1961年に初めて自分が脚本を書いたドラマが放送される。それを観たら、セリフが一言も変えられていないことに感動し、すっかりテレビの世界に魅了されてしまった。

その後も売り込みを繰り返し、翌年にはTBSの人気ドラマ『七人の刑事』で脚本が採用された。このドラマのディレクターの紹介で出会ったのが石井ふく子だ。彼女は橋田より1歳下だったが、すでにTBSの名物番組「東芝日曜劇場」のプロデューサーとして100本以上ものドラマを手がけていた。初対面時には、あなたの好きなものをお書きなさいと言われたので、橋田は「夫の月給の半分は妻の主婦費」とかねての持論をテーマにして原稿を書いた。一読した石井は「こういう話はいままでの『日曜劇場』にはなかった。やりましょう」と即断する。このとき書いた『袋を渡せば』は1963年1月に放送された。

1964年にはベストセラーとなっていた難病物の往復書簡集『愛と死をみつめて』の脚色を石井から依頼される。脚本はかなりの分量になり、1時間枠の「日曜劇場」では1回に収まらなかったので、前後編に分けて放送され、話題を呼ぶ。これをきっかけに橋田は脚本家としてようやく足が地に着いた思いがした。のちに結婚する岩崎嘉一と出会ったのもこの年である。彼が企画した大家族物のドラマ『ただいま11人』で、橋田は全話の3分の1ほど脚本を書いている。やがて岩崎に恋をした彼女は、石井に仲介してもらい、結婚するにいたった。

石井は橋田にテレビドラマの何たるかを徹底的に叩き込んだ。たとえば、映画の世界では現実味のないセリフがよしとされていたので、橋田もついキザなセリフを書いてしまっていたが、「普通こんなこと言う?」と容赦なく書き直させられた。あるときなど、石井が自宅の電話からきつい言葉でダメ出ししていたので、それをそばで聞いていた彼女の母親が驚いて、あとでこっそり橋田に電話をかけて「うちの娘がひどいことを言ってすみません」と謝ったこともあったという。

『おしん』から『渡鬼』へ—多様な家族像を描き続ける

橋田は、結婚まもない1966年に連続テレビ小説『あしたこそ』を手がけたのを皮切りに、NHKでも仕事を始める。NHKは70年代に入ると新たなドラマの枠をいくつか設け、民放では難しいテーマも次々ととりあげた。橋田の『となりの芝生』(1976年)も、主婦が家のローンのために外へ働きに出たところ、家庭がゴタゴタするという内容が、民放では住宅メーカーがスポンサーについているから駄目だと言われ、NHKに持ち込んだものである。いざ放送されると、本来のテーマとは別に、劇中で描かれる嫁姑の争いが視聴者の反響を呼んだ。

連続テレビ小説『おしん』(1983~84年)も、当初はTBSの昼の連続ドラマにどうかと、まず夫に読んでもらったのだが、「いまどき、こんな暗くて地味なドラマは当たらない」と言われてしまう。そこでNHKに持っていったのだが、ここでも担当者から「華がない」と断られた。ようやく企画が通ったのはそれから3年後、NHKからテレビ放送開始30周年記念番組の依頼をもらい、再度提案したときである。ふたを開けてみれば、少女時代のおしんを演じた小林綾子の好演もあり、放送直後から高視聴率を得た。視聴率は最高で62.9%を記録し、ロケ地に観光客が集まるなど大ブームとなる。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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NigerTigris 橋田壽賀子――家族のドラマが書けたのは家族を知らなかったから|近藤正高 @donkou | 12日前 replyretweetfavorite

taka4th 橋田壽賀子――家族のドラマが書けたのは家族を知らなかったから|近藤正高 @donkou |一故人 https://t.co/nMHZY1Obas 17日前 replyretweetfavorite

yomoyomo 《いいえ。介護をちゃんと社会がしてくれて、そのなかで親を思う美風を残していくというのが、いちばんの理想です。親を思っても[引用者注:介護]できないたくさんの人をどこまで助けてやるかというのが政府の仕事だと思うんです》 https://t.co/RBCx8VFXVf 17日前 replyretweetfavorite