​ソーシャルメディアで他人を批判する前に考えてほしいこと

Twitterを使う際、自分なりのルールを決めているというアメリカ在住の作家・渡辺由佳里さん。それは、自身が参加していた活動で、「正義」を訴える人々によって、多くの人の善意が傷つけられた経験があったからでした。自身の体験から、異なる意見を取り交わす時に考えたいことを語ります。

ソーシャルメディアのなかでも特にツイッターは炎上しやすいメディアだ。毎日のように誰かが噂や批判のターゲットになっている。根本的には似たような考え方を持っている人同士が「自分のほうが正しい」という立場の口論を泥沼化させているのも目撃する。わざわざ他人の過去のツイートや「いいね」をチェックして「あの人って、こういう人だったんだ」とツイートする陰口的なものもある。自分がターゲットになるのも嫌だが、自分に無関係な人の話題でも陰鬱な気分になる。だから最近は心の健康のために少し距離を置いている。

これまでにも「誹謗中傷のターゲットになったときにやるべきこと」といった「自分の身を守る」方法を書いてきたが、しばらく心の休憩を取ったので、今回は「ソーシャルメディアで他人を批判する前に考えてほしいこと」という異なる角度で書こうと思う。

私は、ツイッターでの自分ルールを持っている。それは次のようなものだ。

1.政治家など我々を代表する立場にある公人の言動が間違っている場合や危険な場合には、一市民として指摘し、批判する権利がある。

2.私人(アーティストや芸能人も含む)の場合には、個人のプライバシーを尊重する。その人を名指しで攻撃したり、陰口を言ったりはしない。その人の発言や行動に問題が含まれている場合には、その問題のみに焦点を絞り、それについての自分の見解をエッセイなどにまとめる。

3.私人である誰かが問題発言をしていても、自分のほうからわざわざでかけていって嫌味を言ったり、非難したりするリプライはしない(知人の場合で必要があると感じる場合にはDMなど他人には見えない場で意見や提案をする)。

4.話しかけていない人から攻撃的なリプライをされたら、「誹謗中傷のターゲットになったときにやるべきこと」に書いたような方法で対処する。

こういうルールを作った背景には、過去に私自身も参加していた活動で、「正義」を訴える人たちによって、多くの人の善意が傷つけられた経験があるからだ。


正義感に潰された苦い経験

私の娘が通っていた公立小学校には校長、教師、保護者のボランティアで構成されている「反偏見委員会(Anti Bias Committee)」があり、私は別のボランティアで親しくなったPTA副会長の招待で加わった。ここでは互いをファーストネームで呼び合い、何を質問してもばかにされず、批判もされない安心できる雰囲気があった。

委員会は定期的に会って、「いじめ」に関する最新レポートや防止対策を報告しあったり、教材として使えそうなビデオを一緒に観たり、学校で発生した問題の解決策や予防策を語り合ったりしていた。委員の自宅に食事を持ち寄って会議をしたこともある。私をこの委員会に誘ってくれた友人は4人の子供を持つ同性愛カップル(同性婚が合法化されてすぐに結婚)のお母さんで、同性愛カップルの子供たちが学校で差別されないような教育方針も重要なテーマのひとつだった。2001年9月11日の同時テロの直後には緊急会議を設けて「イスラム教信者への憎しみや差別」への対応策を語り合った。この小学校にはイスラム教徒の生徒もかなりいたからだ。


小学校の反偏見委員会主催の「国際ゲームデー」

これ以外にも「No Place for Hate(NPFH,憎しみやヘイトクライムがないコミュニティ)」の運営委員会や「住民の建設的な対話を構築するための委員会」などに加わったことで多くのことを学ばせてもらった。

これらの委員会の委員はすべてボランティアだ。警察署長や教育委員もプライベートの時間を使って参加する。モチベーションは、自分たちが住んでいるコミュニティへの貢献だ。個人的な利益のためにやっていた人は誰ひとりとしていない。けれども、これらのグループとそれに属していた多くの人たちの善意は、後に「正義」を訴える人たちによって傷つけられた。

そのひとつが小学校の反偏見委員会だった。

私がメンバーだったころ、委員会は「ディバーシティ・バッグ」というものを作った。小学校のコミュニティには異なる文化的背景を持つ移民、シングルペアレント、外国からの養子、同性愛カップルの両親など多様な家庭が属していた。同じ学校に通う子供たちが自分と同級生たちの違いを理解し、受け入れられるように、外国の文化や伝統を紹介する本や世界各国の料理のレシピ、ゲーム、ユダヤ人とキリスト教者の間の心温まる交流を描いた絵本、異なる家族を紹介する絵本などを年齢に応じて選び、それらをトートバッグに入れたのが「ディバーシティ・バッグ」である。それらを教室に設置し、希望する子どもに家に持ち帰ってもらい、親子でそれらの本を読んで語り合う機会を持ってもらうというプログラムだった。これはオプションであり持ち帰る義務がないことは学年の最初から親に書面で通知してあった。

私の娘が卒業して数年後、他州から越してきたキリスト教保守系団体に属するある両親が、幼稚園児の息子が学校から持ち帰った「ディバーシティ・バッグ」に入っていた「Who’s in the family?(家族には誰が含まれている?)」という本に「同性愛」の内容があり、学校が同性愛教育をしていると抗議して過激なメディアキャンペーンを繰り広げた。かくして小学校と反偏見委員会は全米の保守から攻撃のターゲットになってしまった。その経緯は「住民が手作りする公教育」の9章「努力していても「不祥事」は起こる」を読んでいただきたいが、その両親が問題にしたのは、2人の女性が子供たちと一緒に庭で飼い犬を洗っているページと、2人の男性が少女と夕飯の支度をしているページであり、「同性愛教育」などというものではなかった。

テレビの人気番組のいくつかで取り上げられ、全米のみながらず外国からもヘイトの電話やメールを毎日受け取るようになった小学校の校長と女性教師は、どちらも、その後しばらくして学校を去った。

私の娘が通った小学校がキリスト教保守系団体から攻撃され、マスメディアで話題になっていたとき、香港出身の知人はそれらの情報から「学校が幼稚園から同性愛教育をしている」と信じ込み、「学校で息子にゲイのことなんか教えて欲しくない」と憤っていた。そのうえ彼女は物知り顔で「教育委員は偉そうにしているけれど、小遣いをもうけたいからなるだけよ」と言った。彼女が陰口を言っている教育委員たちは、アジア系の私たちの子供が学校で平等に扱われるように尽くしてくれていた人たちだ。 私は学校がやっていることは同性愛教育ではなく反偏見教育なのだと説明し、教育委員が無報酬のボランティアだということも伝えたのだが、彼女は「でも、選挙運動の寄付で余った分は自分のものにするのよ。そう聞いたことがある」と譲らなかった。

私が長年関わったNPFHもある団体の攻撃のターゲットになって崩壊した。小学校と反偏見委員会を攻撃したのは右派団体で、NPFHを攻撃したのは左派団体だった。これらの体験で私が身にしみて実感したのは、政治的に右寄りとか左寄りとかには関係なく、「あの人(グループ)はこういう人たちだ」という決めつけと、それを信じてしまう人たちの破壊力だ。

彼らは、心ある人たちが時間をかけて積み上げてきたものを、ときには無邪気に、一瞬にして破壊する。


異なる意見を取り交わすとき、You(あなたは)で会話を始めてはならない

小学校での反偏見委員会にしても、NPFHにしても、多くの町民は活動内容を知らなかった。縁の下の力持ち的な存在だから当然だ。だから、声が大きい団体が攻撃したときに、その言い分だけを聞いて「彼らはそんなことをしているのか!」と驚いたり、憤ったりした人が多かった。

これは、私たちの日常でも起こっていることだ。誰かが自分の期待とは異なる言動を取ったときに、簡単に「そんな人だったのか!」と決めつけてがっかりしたり、憤ったりする。ソーシャルメディアでよく見かけるのが、お互いを「差別者」と決めつけているケースだ。

でもそれは誤解かもしれないし、単に異なる視点なのかもしれない。差別や偏見とは無関係なものかもしれない。また、現在の自分の知識では相手の言うことが間違っているように感じるが、その人の生まれ育った環境ではそれが常識だったのかもしれない。

相手がなぜそういう考え方に至ったのか、じっくり話を聞いてみないと本当のところはわからない。話を聞いてみたらこちらの勝手な思い込みだったとわかることがある。あるいは、単に知る機会がなかっただけのこともある。

「住民の建設的な対話を構築するための委員会」で学んだことのひとつは、異なる意見を取り交わすときに「You(あなたは)」で会話を始めてはならないということだ。自分にわかっているのは自分の頭の中だけだ。だから、「あなたの考えはこうだ」という決めつけで語ってはならない。「私はこのようにとらえましたが…」とあくまで自分にわかっている範囲で語るべきだというものだ。

私が委員をしていた頃に住民を分断していた問題は住民税(固定資産税)だった。固定資産税収入の半額以上が公立学校の運営費にあてられていたにもかかわらず学校は赤字だった。毎年のように税率を上げる必要が生じ、それを可決する住民投票が町を真っ二つに分けていた。この委員会にやってきて苦情を言うのは反対派の古い住民が多かった。

ある時、高齢の白人女性がやってきて「私には住む家が必要だけれど、このまま住民税が上がり続けたらこの町には住めなくなる。なぜ小学生や中学生に外国語を教える必要があるのか? 私の子供の頃のように読み書きと算数で十分ではないか?」と長時間にわたって文句を言い続けた。彼女ははっきり言わなかったが、「優れた公立学校がある」という理由でこの町に越してくるアジア人が急増しているのも不満な様子だった。「外国人の子供に良い教育を与えるために、なぜ私達が高いお金を払わなければならないのか?」というものだ。

この女性の言い分を「偏見」とか「差別」で片付けるのは間違っていると私は思う。

彼女が生まれ育った故郷のこの町は、1960年頃にハーバードやMITの教授が引っ越してきて教育改革を始めるまでは農業中心ののんびりした場所だった。警察官や教師の月給で自宅を買うこともできた。だが、需要が増えて不動産が値上がりし、町で働く警察官や教師が家を買うことはできなくなってしまった。また、私たち夫婦が越してきた1996年には年額50万円程度だった固定資産税は、現在では200万円を超える。娘が通った小学校はまるで私立大学のキャンパスのように建て直され、すべての教室にはiPadとマックブックが数台設置されている。すばらしい教育環境だと思うし、そういう公立学校を誇りに思う。でも、節約のためにiPadを買うのを躊躇しているわが身としては、私が節約して払った税金で幼稚園児がiPadを使っているのを見ると少しモヤモヤするのも事実だ。この町が農村だった頃に生まれ育った人が「なぜ私たちのほうが出ていかなければならないのか?」と憤りを感じるのは当然のことだろう。


ソーシャルメディアで他人を批判する前に考えてほしいこと

今アメリカの社会で起こっている分断には、異なる立場の人を理解するよりも、自分が正しいと信じていることを強く押すことのほうがパワフルに感じるということも関係していると思う。少なくとも、ソーシャルメディアで観察できるのはそういう現象だ。

#MeTooや#BlackLivesMatterは、社会を急速に変えるために必要な運動だった。

だが、急速な改革を要求する運動と同時に「私が好きな村で好きな暮らしを続けていきたい」という小さな願いだけを持っている人に「私もあなたの仲間です」「あなたを助ける側になれます」とわかってもらえるよう働きかける努力も必要だと私は思っている。彼らに「あなたは偏見がある」「あなたは差別者だ」と批判しても、わかってもらえるより反感や恐怖心を抱かれてしまうだけだ。

そういう意味でも、アジア系の移民である私がこの委員会で古い住民の苦情に「ただ耳を傾ける」という仕事をするのは重要だったのだ。

リアルの世界では、最初に「何言っているの?」と感じても、その後話し合って「ああ、なるほど。あなたがそう思うのは、こういう体験があったからなんですね」とわかりあえる可能性がある。たとえ同意することができなくても、その人の個人的な見解を尊重することも可能だ。

でも、ネットではそんな機会はほとんどない。「あなたはこういう人だ」「この人はこういう人だ」と決めつけて終わる。それだけでなく、その決めつけがどんどん広まってゆき、その人は「そういう人」になってしまい、決めつけられた人と、決めつけた人は永遠の敵になる。

でも、あなたが批判するその人は、もしかしたら、どこかであなたの権利のために働いてきた人かもしれない。人権に関する社会通念は時代とともに変化してきたが、それは自然発生的なものではない。女性参政権もそうだが、誰かが働きかけたからこそ達成したものだ。あなたが現在「差別的な考え方をしている」と批判している人のなかに、その努力をしてきた人がいるかもしれない。

たとえば、バーモント州知事だったハワード・ディーンは、2000年に同性愛カップルに夫婦同様の法的権利を保障するシビルユニオンという法律を成立させた。これは全米で最初の画期的な行為だったが、急進派リベラルは「中道派の中途半端な対応だ」と猛烈に批判した。だが、シビルユニオンですら宗教保守派から生命を脅かされる大きな決断であり、同性結婚を可決させるのは不可能だった。左と右の両方から激しく攻撃されるなかでシビルユニオンを法にしたディーンは多くの意味で非常に勇敢だったのだ。この第一歩があったからこそ、2004年にマサチューセッツ州で同性結婚が合法化されたのだ。

2016年の大統領選予備選挙でヒラリー・クリントンを支持したためにディーンを「権力寄り」などと激しく批判し続けた若いサンダース支持者たちに私が感じた憤りはこういったところにある。現在彼らが「あたりまえの権利」とみなしていることは、ディーンのような人たちの努力なしには実現できなかったのだ。

また、ソーシャルメディアでの批判は、失敗した人がそこから学んで変わるチャンスも奪ってしまうことが多い。今はあなたの言うことに賛成しなくても、その人が将来味方になってくれる可能性はある。人は、体験で変わっていくものだから。でも「あの人はこういう人」と決めつけられ、人格攻撃をされたとしたら、その人は自分を攻撃した人の見解を理解したいと思うだろうか? 私ならなれない。

また、あなたが現在誇りにしている正しさだって、10年後や20年後にはもう古ぼけた価値観になっていて、もっと若い人たちから「偏見がある」「差別だ」と批判される時が来るかもしれない。

ネットで「あの人って、こういう人だったんだ」と安易に批判したり、噂したりするのは簡単だ。でも、その人のことを、あなたは本当に知っているだろうか? その人を傷つけることを承知で語るのは正しいことなのか? その正しさは誰にとって重要なのか? その人を徹底的に叩いて破壊することで、あなたの住む世界は良くなるのか?

言葉にはパワーがある。それがもたらす影響を考える義務は、有名無名に関係なく、誰にでもある。

他人を名指しで批判したくなったとき、それを考えてみてほしい。

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渡辺由佳里さんがベストセラーから伝えるアメリカのいま。

ベストセラーで読み解く現代アメリカ
渡辺由佳里(著)
亜紀書房
2020/2/19

現在の危機を歴史の再考から捉えなおす、現代アメリカの水先案内人による勇気と希望のエッセイ集。

それを、真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力
レベッカ・ソルニット (著)  渡辺 由佳里 (翻訳)
岩波書店
2020/1/30

この連載について

初回を読む
アメリカはいつも夢見ている

渡辺由佳里

「アメリカンドリーム」という言葉、最近聞かなくなったと感じる人も多いのではないでしょうか。本連載では、アメリカ在住で幅広い分野で活動されている渡辺由佳里さんが、そんなアメリカンドリームが現在どんなかたちで実現しているのか、を始めとした...もっと読む

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