イラスト:澁谷玲子
時代の変化に取り残された男の「死に様」
時代も価値観もどんどん変わっていくものなのだとしたら、では、それについて行けない中年男たちはどこに行くのだろう。ただ滅んでいくべき存在なのだろうか。基本的には中年男性たちが時代に合わせて前向きに変わっていくことを望んでいる僕は、だけど同時に、そこから取りこぼれてしまうひとたちに対して強く何も言えない気持ちになってしまう。どうしてなんだろう。
映画『レスラー』(2008年)のなかの、終わっていく中年男の姿がいまも忘れられないからだろうか。
とても悲しい映画だ……主人公は、ミッキー・ロークが鍛え上げた肉体とともに演じるプロレスラー、ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソン。彼は80年代に絶大な人気を誇る花形レスラーだったが、現在は落ち目になってしまい細々と巡業をして暮らしている。だが、長年のステロイド剤の使用のせいで心臓に負担がかかっており、あるとき倒れてしまう。それを機にランディはプロレスラーとしての人生を終わらせることを決意し、長年疎遠だった娘との関係も修復して、人生をやり直そうとする。
けれどもリングの外の世界は彼に厳しかった。スーパーでの仕事はうまくいかず、想いを寄せていたストリッパーの女性には拒絶され、さらには自分を再び受け入れかけていた娘との約束をすっぽかしてしまい、絶縁されることになる。すべて失ったランディは、“ザ・ラム”として再びリングに立つことになる……そこを自分の死に場所とするために。大歓声のなか、往年の必殺技「ラム・ジャム」を繰り出そうと“ザ・ラム”が宙を舞ったところで映画は終わるが、その心臓はやがて止まるのだろう。
ランディは時代の変化に取り残された結果、この世から自ら消えていった男だ。「80年代の音楽は最高だった! 90年代にニルヴァーナみたいなヤツらが現れたせいでロックはダメになったんだ!」とランディが息巻くシーンがあるのだけど、一方で、結局和解することができなかった娘の家に00年代にスマートな佇まいで登場し人気を得たロック・バンド、ヴァンパイア・ウィークエンドのポスターが貼ってあるのはとても象徴的で……残酷だ。ランディはヴァンパイア・ウィークエンドが誰なのか、知るよしもないだろう。現代に彼の居場所はなく、そして結局、80年代のハード・ロックを爆音で流しながらプロレス会場にひとり車で向かうことになるのである。
ランディの変われなさがいわゆる「有害な男性性」から来ているものなのか、正直僕にはわからない。屈強であることを自らに強く課してきたことや、自らを拒んだ女性に対して勢いとはいえ罵倒してしまうところなどを見ると、まったく関係がないとは言えないだろう。しかし、たとえそれが社会に知らずのうちに背負わされたものだったとしても、ランディはかつての生き方を捨てることができない。そして変われないまま惨めに生きていくよりは、レスラーとして散っていくことを選ぶのである。この映画に涙した多くの中年男たちは、ラスト・シーンを美しいと思っただろうか……「男の死に様」として。
「男が憧れる男」が歌った『レスラー』主題歌
そのシーンの感傷をすべて引き受けるのが、ブルース・スプリングスティーンによる主題歌である。そのまま“The Wrestler”と題されたその曲で、スプリングスティーンは穏やかに、しかし力強く闘う男の孤独を歌う——「ここは留まることができない我が家/俺が信じるのは、折れた骨とむき出しの痣だけ」。叙情的なメロディと、そこに寄り添うピアノとギターの演奏は、悲劇を見る者たちの痛みを和らげるように響く。
聴けば聴くほど、『レスラー』の主題歌はスプリングスティーンしかあり得なかったと思う。1970年代からロック・ヒーローであり続けてきた彼は、その男性的なルックスもあって「男が憧れる男」として人気を集めてきたところがあるからだ。実際、映画を観て感動したスプリングスティーンが自ら希望したことから、この歌が生み出されたのだという。
ただ正直に言うと、映画を観て思いきり切ない気分になった僕も、はじめてミュージック・ヴィデオを観たときは少し面食らったのだった。そこではあまりにも典型的な「男らしさ」が現れていたからだ。タンクトップを着てダンベルを持ち上げるスプリングスティーン、チャラめのチェーン・ネックレスをつけたスプリングスティーン、リングの上でこちらを真っ直ぐに見据えるスプリングスティーン……。当時60歳手前くらいだろうか、そこで彼は、古めかしくてマッチョな男性像を真っ向から引き受けている。
けれどもその像がパロディではなく本気も本気だからこそ、この歌に男たちは泣いたのだろう。それを笑うことは僕にもできない。変われない男の悲しみを、男たちに熱く支持されてきたからこそ彼は一身に受け止めたのだ。
ブルース・スプリングスティーンとはどんな人物なのか
ファンからは「ボス」の愛称で知られ、70歳を過ぎたいまも現役で活動するスプリングスティーンはロック・レジェンドのひとりに数えられるだろう超大御所だが、彼のこうした男性的なイメージはどこから来たものなのだろう。Gジャンやタンクトップなど、いかにもマスキュリンなファッションが記号的に認知されている部分も大きいとは思われる(こうしたロッカー的イメージは日本では長渕剛や尾崎豊にも受け継がれている)が、それ以上に、彼が労働者の男たちの物語を歌ってきたことが大きいのではないだろうか。
スプリングスティーンが古くからその歌で描いてきたのは、日々の貧しい暮らしに消耗するブルーカラーの若者たちや、アメリカン・ドリームを目指しながらそれが叶えられなかった者たち——ほとんどの歌の主人公は男である——の悲哀だ。そのエモーショナルなストーリーテリングはメロドラマ的だと言っていい。だからこそスプリングスティーンは労働者の若者たちに愛されてきたし、アメリカにおいてリベラルな層だけでなく、中西部や南部のような「保守的」とされる地域にも多くのファンを抱えてきた。ボスは俺たち貧しい野郎たちの気持ちをわかっている、と。
そのサウンドも、いくらかの変遷はありつつも、ソウル・ミュージックを取り入れた情熱的なロックンロールという基本路線は変わっていない……それは言ってしまえば、とても「男くさい」ものだ。そして、その一貫した姿勢は一種のブレなさとして支持されてきた。
政治的立場としてはかなりのリベラルとして知られているスプリングスティーンだが、そうした泥くさいロックンローラーのイメージからか、保守側からアイコンにされるようなこともあった。有名なのは、1984年のヒット・ナンバー“Born in the U.S.A.”が共和党のロナルド・レーガン陣営に大統領選のキャンペーン・ソングとして使用されたことだ。もとはベトナム帰還兵の苦悩を綴った歌詞だったのだが、その点は意図的に無視され、猛々しい愛国ソングとして利用されてしまったのだ。
そうした誤解を払拭するようにスプリングスティーン本人は一貫して民主党支持の立場を表明してきたため、現在では一般的にもリベラルなロック・スターのひとりとして認識されているだろう。民主党のバイデン大統領の就任コンサートに登場したのも記憶にあたらしいし、最近ではオバマ元大統領とポッドキャスト番組を始めたことも話題になった。
彼自身はアメリカン・ドリームにおける成功者だし、超がつくセレブリティであることは間違いないが、ただ、だからと言ってその歌では「リベラルなエリート」の立場を代表するのではなく、庶民や敗者の物語を描き続けている。
こうしてスプリングスティーンの活動歴や表現内容をざっと振り返るだけで、進歩的/保守的といった単純な二元論で捉えられない人物なのは明らかだ。そして、彼が表象する男性性もまた複雑なものであるように僕には思える。
人は器用に生きられないし、簡単には変われない
スプリングスティーンがまとう「男らしさ」を巡って僕が思い出すのが、代表作であるアルバム『ザ・リバー』(1980年)に収録された“I Wanna Marry You”のことだ。
「結婚しようよ」と訳せばいいだろうか、一聴すると、恋焦がれる「きみ」と結婚したいと願う男の能天気なラヴ・ソングだ。けれど歌詞をよく読むと、「きみ」はどうやらシングルマザーで、ひとり働きながら子育てをする彼女を助けたいという想いがそこに含まれていることがわかる。そこには結婚によって男が女を守ってやるという無自覚な傲慢さもあるし、何より「きみ」が歌の主人公を愛しているのかどうかは定かでない。一方的な妄想の歌の可能性もある。
ただ、この歌で重要なのは次のブリッジのラインだ。
俺の父親は死ぬ間際に言った
本当の愛は、本当の愛なんてものは嘘だった
彼は傷ついた心のまま死んでしまった
満たされない人生は、ひとをかたくなにしてしまう
この歌の主人公は、結婚で「本当の愛」を見つけることを失敗してしまった父親のようになりたくないと怯えているからこそ、愛する「きみ」のために良い男であろうとする——彼が思う「良い男」の条件は「きみを愛し続ける」というごく単純なものなのだけれど、これは父親世代の「男の悪さ」を乗り越えようとする態度だと見ることもできる。実直に愛に身を捧げることで、「あたらしい男」になろうとしたのだと。
けれども、男は結婚によって「本当の愛」を見つけました、とならないのがスプリングスティーンの歌の生々しさでもある。『ザ・リバー』は“I Wanna Marry You”の次に表題曲の“The River”——スプリングスティーンの代表曲どころかロック史に残る名曲を用意しているのだが、それは結婚によって幸せになれなかった男の歌なのだ。
“The River”の主人公は19歳の労働者の青年で、あるとき17歳のメアリーを妊娠させて結婚する。豪華な結婚式を挙げられなかったふたりだが、その夜いっしょに川に行って泳ぐ——それがふたりにとって、美しい思い出になった。けれども貧しい暮らしのなかで、ふたりの関係は悪化し、「大事だと思えたことが、すべてどこかへと消えていく」。男はふたりの大切な記憶を覚えていない振りをして、メアリーも気にしていない振りをする……とても切ない歌だ。
そして次の瞬間、スプリングスティーンは腹の底から振り絞るように「けれど、俺は覚えている」と歌うのだ。
いま、その記憶が戻って来て俺に取り憑く
呪いのように取り憑くんだ
夢は実現しなかったら嘘になるんだろうか、それとももっと悪いものなんだろうか
あまりに感傷的な歌だ。けれど、ささやかな幸せを掴もうとして掴めなかった人間の痛みがたしかに封じこめられていて、僕は聴くたび息が詰まってしまう。
もちろん“I Wanna Marry You”と“The River”で歌われているのは別の人物だが、ここにはたしかな連続性があるように僕には感じられる。父親の不幸に取りこまれないようにしようとした男が、しかしそれを呪いのように引き継いでしまう——これほど悲しいことがあるだろうか。そう、ひとは器用に生きられないし、簡単にあたらしくなることなんてできない。それはどこかで、男性性の「更新」の難しさと重なっているように見える。
スプリングスティーンが背負う男性性の複雑さ
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