これからの世界で最も大切なのは教育です」| 至誠通天(十一)

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。青年期から最晩年まで、「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、令和版大隈像をお楽しみください。


十一


 歴史というのは後世から見れば、ターニングポイントがよく見えてくる。

元老の山縣が大きな影響力を持ち続けていたことで、日本は大きなターニングポイントで誤った選択をしてしまった。

加藤高明か寺内正毅かで、もしも加藤内閣となっていれば、軍部の勢力伸長とシベリア出兵は防げたはずで、後々の第二次世界大戦さえ起らなかったかもしれないのだ。

だが大隈自身、高齢の上に胆石による体調不良も重なり、矢折れ弾尽きた状態だった。

一方、同年齢の山縣は元老の地位に君臨しており、山縣にだけは負けたくないという気持ちだけが、大隈を奮い立たせていた。

案に相違せず、大隈に代わる寺内内閣の抱負と方針は、大隈の理想とはほど遠いものだった。寺内内閣は、海軍大臣の加藤友三郎以外は山縣の息のかかった者たちで固められ、超然内閣と呼ばれていた。

超然内閣とは議会、政党、マスコミ、国民の声に耳を貸さず、超然としてわが道を行く内閣のことで、藩閥内閣の残滓を色濃く受け継いでいた。あまりにその姿勢が露骨なので、「非立憲主義」と寺内そっくりのビリケン人形にかけて、ビリケン内閣と呼ばれた。

大隈は「健全な二大政党による政治運営」というイギリスの立憲主義に倣った体制を日本でも定着させるべく奔走してきたが、首相を退いた後の政界への影響力の低下はいかんともし難く、政治の世界と距離を取らざるを得なかった。

そのため大隈の究極の理想である「東西文明の調和による平和」という目標に邁進すべく、活動の場を大日本文明協会と雑誌「大観」に求めるようになった。

大日本文明協会は明治四十一年当時、早稲田大学総長だった大隈によって設立された啓蒙的団体で、「東西文明の調和と統一が世界平和を生む」という理念の下に、双方の知識人や文化人の交流を活発に行っていた。

一方、雑誌「大観」は、大隈の個人的言論雑誌だった「新日本」と国際関係に的を絞った「外交」をリニューアルしたもので、「第一次世界大戦後の世界の大勢を観極める(見極める)」という理念から名付けられた。

第一次世界大戦後の奥州の惨憺たる有様も、徐々に日本にもたらされるようになってきた。民間人も含めた犠牲者は三千七百万人を数え(第二次世界大戦は五千から八千万人)、人類未曾有の大惨事だったことが分かってきた。こうした情報に接した大隈は、軍縮による平和の実現こそ急務だと思い、日本もこうした惨禍に見舞われないようにするためには、「国民の教育水準の向上」を第一に掲げた「教化的国家論」を説くことになる。

ところが大正七年八月に勃発した米騒動の責任を取って寺内内閣が退陣することになった。

九月、後継内閣について、天皇が大隈の意見を聞きたいということになり、大隈は久しぶりの参内を果たした。

この場で、大隈は舌鋒鋭く山縣ら元老を批判した。とくに山縣は枢密院議長に就任しながら会議にも出席せず、米騒動の際にもわれ関せずで、別邸に籠もりきりだったことを指弾し、また松方も元老として何の働きもないと批判し、即刻元老会議を解散するよう献言した。

肝心の後継首班については返答を保留し、数日後に再び参内し、加藤高明ないしは西園寺を首班とする挙国一致内閣を勧めた。

しかしこれは西園寺の固辞によって成らず、政友会を与党とする原敬内閣が発足した。


この年の年末、大隈は総理大臣になったばかりの原敬の訪問を受けた。

「よくぞお越しいただきました」

「とんでもありません。総理大臣を拝命してから、急に多忙になってしまい、ご挨拶に来るのが遅れました」

「このたびは内閣総理大臣の就任、おめでとうございます」

「いえいえ、この重責に堪えられるかどうか」

「原さんには堪えていただかねばなりません。何と言っても、原さんは日本初の本格的政党内閣の首班なんですから」

 原は外務大臣と陸海大臣を除く全大臣に、自らが主宰する立憲政友会の議員を指名したので、「本格的政党内閣の誕生」としてマスコミや国民からもてはやされた。

 大隈も「わが理想実現せり」「多年主張してきた政党内閣が、これにて実現せられたるを欣快とするものなり」とコメントし、原内閣の誕生を祝した。だが自分が成し遂げられなかったことを原が成し遂げたことに、羨望の念がなかったと言ったらうそになる。

 早稲田邸の温室に案内した大隈は、ゆっくりと歩きながら花々の説明をした後、温室内のテーブルに着いた。

 原は岩手県出身の六十二歳。大隈の十八歳下で、幕末維新の頃は少年にすぎなかった。明治維新後、新聞記者を経て外務省に入省し、主に外務畑を歩んできた。後に華族の爵位を拒み続けたので、「平民宰相」として親しまれることになる。

「原さんとはかつていろいろありましたが、それを水に流していただき、感謝に堪えません」

 かつて原は郵便報知新聞社に勤めていたが、明治十四年の政変で大隈が下野した時、会社が大隈によって買収された。以後、「報知新聞」は立憲改進党(当時)の機関紙のようになった。それを受け容れ難いとした原は退社し、役人を経て政治家になり、政友会の党務を担っていくことになる。

「あの頃は私も若かった。ご無礼の段、お許し下さい」

「こちらこそ、わだかまりを捨ててご来訪いただき、感謝に堪えません。その後も原さん率いる政友会とは好敵手の関係でしたからね」

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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