十
大正三年四月十六日、第二次大隈内閣が発足した。それまでの最高齢組閣者は山縣の六十歳なので、それを大幅に上回る七十六歳での組閣となった。
大隈は内相を兼ねることになり、自らの後継者と目している加藤高明を外相に据えた。また大隈の郷里佐賀の選挙区を守ってきた武富時敏を逓信相に就けた。さらに袂を分かっていた尾崎行雄を法相に据えた。犬養毅だけは入閣を断ったのが残念だったものの、大隈の理想に近い内閣が組織できた。
国民と元老双方から歓迎されて発足した第二次大隈内閣は、順風満帆な船出をしたかに見えたが、シーメンス事件の後始末や西園寺内閣時代の二個師団増設問題に解決策が見出せず、しかも廃減税について具体性がないことから、野党の政友会の攻撃を受け始めていた。それが長引けば、国民からも反感を買う。
それでも大隈は引くつもりはなかった。ここで踏ん張らなければ政党政治は勢いを失速し、軍部の勝手し放題になるからだ。
前途は決して平坦ではないのだ。
しかし第二次大隈内閣が発足してから三カ月半後の七月、そうした些細なことをひっくり返すようなことが、遠く欧州で勃発した。
第一次世界大戦である。
大正三年六月、サラエボでオーストリア皇太子がセルビア人に殺されることで、両国の間で戦争が始まり、たちまち欧州全土が戦火に包まれていった。そして八月には、イギリスがドイツに宣戦布告をする。
これにより日英同盟を結んでいることから、日本もイギリスに加担して参戦する可能性が高まった。大隈は当初静観していたが、イギリスからドイツの仮装巡洋艦捜索の依頼が来るに及び、八月二十三日、ドイツに対して宣戦布告を行った。
大隈は演説で「極東の平和を乱す恐れのあるアジアのドイツ勢力を駆逐し、日英同盟を守るための宣戦布告であり、領土的野心は一切ない」と予防線を張った。
十月、海軍はドイツ領南洋諸島を占領、陸軍は十一月に中国山東省の青島を陥落させ、山東半島を支配下に置いた。
この手際よい戦争の勝利が、大隈人気に拍車を掛けたのは言うまでもない。
第一次世界大戦の勝利により、大隈は大正四年の総選挙に大勝利し、盤石の体制を築いた。
その後、「対華二十一カ条」の要求で、外相の加藤高明に外交上の不手際はあったものの、大隈の政権運営は手堅く、すべては順調に推移していくかに見えた。
ところが大正四年、大問題が噴出する。大浦事件である。
大正四年七月末、大隈の待つ総理大臣執務室に入ってきたのは、山縣だった。同行しているのは大山巌である。
「よくぞお越しいただきました」
立ち上がった大隈が深々と一礼する。
「こちらこそ、ご多忙の折、あいすみません」
大山が会釈するのに合わせて、山縣も軽く頭を下げた。
——厄介な御仁だ。
その不機嫌そうな顔つきを見れば、山縣にとって、この訪問が不本意なものなのは明らかだった。
大山が高らかに告げる。
「結論から申し上げます。閣僚の皆さんの辞表について、天皇は『それに及ばず』とのことでした」
直立不動の姿勢で一礼した大隈は、二人に座ることを勧めた。二人が座に着いたのを見て、大隈も座った。
「元老のお二方におかれましては、様々にご配慮をいただき、申し訳ありませんでした」
大山は「とんでもありません」と答えたが、山縣は何も言わず、宙を見据えている。
「不肖大隈重信、天皇のお言葉を賜り、心して内閣改造を行い、これまで以上に粉骨砕身していく所存です」
「大隈さん」と山縣が初めて口を開く。
「本音で話そう」
その細い目が大隈に据えられる。
「いいでしょう。それが国家のためですから」
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