—当分は、ここで佐賀の発展を見守るとするか。| 至誠通天(八)

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。青年期から最晩年まで、「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、令和版大隈像をお楽しみください。



 大隈の身にも緩やかに晩年が訪れてきていた。それでも大隈は、自らを鼓舞するように政府への関与をやめなかった。伊藤亡き今、自らが山縣ら軍拡派の防波堤となるべく、影響力の及ぶ限り、外野からでも発信を絶やさないつもりでいたからだ。

 明治四十四年(一九一一)、第二次桂太郎内閣から政権を譲られる形で、第二次西園寺公望内閣が発足した。西園寺は山縣ら軍拡派の意向に左右されず、与党の政友会から自らを含む四人の閣僚を選出した。ポストは十人なので、政党出身者の閣僚が四割を占めたことになる。

 その中に松田正久法相もいた。松田は大隈より七つ年下で次世代というほどでもなかったが、佐賀藩士としては中枢にいたわけではなく(支藩の小城藩出身)、大隈ら義祭同盟の面々と親しい間柄にあったわけでもない。つまり実力だけでのし上がってきた人物だった。

 幕末維新は雲煙の彼方に去り、大隈の周囲にいた敵も味方も、次々と鬼籍に入っていく。

大隈は時代の移り変わりを感じていた。


 西園寺内閣が成立した際、大隈は新聞などに「財政難でも募債や増税を避けること」「軍備の拡張、鉄道線の拡張と国有化、港湾の修築などをやめること」「閥族政事を一掃すること」などを提言した。藩閥ではなく閥族という用語を使っているのは、藩閥が派閥へと変容を遂げていたからだ。

 西園寺内閣が発足して約一年後の明治四十五年(一九一二)七月、明治天皇が永眠した。

 天皇は終始大隈を疎んじ、信任も厚くはなかった。だが大隈は明治天皇の治績を絶賛し、「不世出の大帝」と言って礼賛した。

 この頃、不況と増税によって国民生活は困窮を極めていた。ちょうど山縣らが二個師団増設を唱えていたこともあり、国民の多くが長州閥とその支配下の陸軍を敵視し、護憲運動が始まった。

 そのため政府を牛耳る山縣は、長閥出身で山縣派でありながら造反していた桂太郎に第三次内閣を発足させるしかなかった。

 だが国民の怒りは頂点に達しており、護憲運動が激しさを増してきたことに、桂は手に負えなくなり、内閣発足から五十三日でなすところなく総辞職した。

 大正二年(一九一三)二月、薩閥出身の山本権兵衛内閣が組閣された。この内閣は衆議院第一党の政友会を与党としており、首相、陸海軍相、外相を除く閣僚が政党員という政党内閣に近い内閣だった。だが政友会の予算拡大主義を大隈は批判し、攻撃の手を緩めなかった。

 またこの頃から大隈は軍幹部との接触を増やし、自邸に頻繁に招待するようになる。これは軍拡に反対だから軍と距離を置くのではなく、あえて接近して「取り込む」という考えに基づいていた。

 大隈は「平和を維持するのは軍であり、国民の国防思想の統一と軍隊の士気こそ、国家の礎だ」とまで言って軍幹部を鼓舞した。これは、この頃の大隈が危惧していた「武士道精神の忘却」にも起因しており、国民精神の拠り所を武士道に求め、その体現者こそ軍人だという考えから発していた。

 これまでの大隈には考えられないことだが、急速な近代化によって失われつつある価値観の回復を考える年齢に、大隈も達していたのだ。

 二月、大隈は来日した孫文を自邸に招いている。孫文は中華民国建国の父として、日本でも著名な存在だった。

すでに孫文とは面識のある大隈だったが、じっくりと話をするのは、これが最初だった。

ちなみに清国は明治四十五年(一九一二)年に滅亡し、中華民国が樹立されていた。

 孫文は辛亥革命に成功し、中華民国初代の大統領に就任しながら、わずか三カ月で袁世凱にその座を譲らねばならなかった。袁世凱は軍事力を持っていたからだ。その無念の思いを聞き、大隈は立憲政治の大切さを改めて思い知った。

 この頃の大隈は各地を巡遊し、活発な演説や講演を行っていた。早稲田大学の卒業生が各地に散らばり、様々な式典や演説会の便宜を図ってくれるので、大いに助かった。三十年前の学校の創設が、思わぬ副次的効果を生んだのだ。

 大隈は十七年ぶり二度目となる帰郷もした。この旅行は関西・四国・九州・中国を回るもので、大正二年十月末から一カ月余に及ぶ大旅行となった。

 十一月八日、大隈が佐賀駅に降り立った。駅には盛大な出迎えの人々が出ていたが、二時間前に到着した鍋島直大侯爵ほどの歓迎ではなかった。大隈が事前に手を回して差をつけるように手配していたのだ。

 大隈は、その足で直大の屋敷に訪問して歓談した。この日は歓迎会などがあり、翌九日は墓参りなどを済ませた。そして十日、大隈は鍋島閑叟銅像除幕式に出席する。


 楽隊が国歌を奏でる中、案内役に先導され、細長い赤絨毯を進んだ大隈は、幕の掛かった銅像の下まで来た。

紅白の太い紐を手渡されると、大隈は楽隊の演奏が終わるのを待って紐を引いた。

次の瞬間、閑叟が現れた。

背後からため息が起こり、それは歓声と拍手に変わっていった。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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