「泣ける」作品とは
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※この記事はネタバレを含みます。
映画や本には、「泣ける」と謳われている作品がたくさんある。
レビューや口コミで、「泣けた」ことを強調しているものも多い。
泣けることを期待してフィクションに触れる人や、泣けたことでその作品を大切に思える人がそれだけ多いということだろう。
悲しみ、共感、同情、喜び、憐れみ、自分の過去が許されたような感覚……フィクションに心動かされて涙が流れるとき、私たちはさまざまな感情を味わっている。
そのなかには、フィクションのなかだけで完結すものもあれば、人生にフィードバックできるものもある。
後者の作品は、折に触れて何度もリピートするたびに新しい解釈が生まれたり、人生において何かを決断するときの参考になったりもするだろう。
そこで今回は、私にとってそのような作品となったアニメ作品「CLANNAD」について書いてみたい。CLANNADは「泣ける」というレビューや口コミがとても多い作品で、まさに「泣きゲー」と呼ばれるジャンルの恋愛アドベンチャーゲームを原作としている。
私は「泣きゲー」をプレイしたことはないが、それらのゲーム作品はおそらく、プレイヤーを泣かせること、感動させることを目的に作られているのだろう。
そもそもゲームであれ映画であれ小説であれ音楽であれ落語であれ、作り手の技術によって受け手の感情をコントロールすることは可能だ。
だが、少なくともアニメ版のCLANNADは、そうした技術によってのみ視聴者を泣かせているわけではない。
というよりも、視聴者はCLANNADに泣かされているのではなく、作品を観ながらさまざまなことに思いを巡らせて勝手に泣いている場合が多いのではないだろうか。
少なくとも私はそうだった。
CLANNADを観ながら何度も心を動かされて涙を流したが、その理由を考えてみても、CLANNADがこういう作品だから、という説明には収まりきらない。
作品自体の持つ意味や構造を超えたところで、何か過剰なものに触れて心を動かされたからだとしか思えない。
ただそこにあるものの美しさ

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その過剰なものとは、作り手である京都アニメーションのスタッフや声優の方々の思いだろう。
この連載で何度も書いているが、私は子どもたちと一緒に京都アニメーション制作の作品をいくつも観てきた(「子育てとアニメ——京都アニメーションの作品が描く「人間」とは」)。
そして、どの作品にも共通して、作り手側の、作品世界やキャラ達への強い愛が感じられた。
たとえば京都新聞の記事、「『ただそこにある美しさ』挑んだ若き美術監督 京アニ『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が遺作に」 によると、多くの作品で美術監督を務めた渡邊美希子さんは、「毎日の景色が大事な教材」だと、カメラを手に各地を訪れてロケハンをしたり、スタッフブログに春のツバメの巣作り、秋の色のくすんだ葉などの、四季の変化を綴ったりしたという。
家族と空を見ながら、雲の種類について話したこともあったらしい。
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