世の中にはいろんな人が居り、気の長い人も居れば気も短い人も居る。相対、次郎長は気の短い人であった。
赫っ、となると手が付けられなくなり、見境なく人を打擲した。少年時代からこうした傾向にあり、長じて稍その傾向が収まったかに見えたが、やはり持って生まれた性分がそう簡単に治せる訳がない。
金八に誘われて出掛けていった矢部の平吉の家の小博奕で、武五郎、佐平、富五郎、千吉、長伝、乙松と勝負のイザコザから喧嘩になり、一旦は負けて逃げたものの、どうにも我慢がならねぇ、というので引っ返して、佐平と小富の二人をぶち殺して巴川に投げ込み、残りの連中も敗走させてやっと溜飲を下げた。
と、その時はよかったが、よくよく考えてやったことではなく、一時の腹立ちに任せてやったことだから日が経ってよくよく考えて青くなった。
と云うのはそらそうだ、いくら相手がやくざ者といったって人殺しには違いない。
まだ死骸が上がってないからよいようなものの、死骸が上がって、知った人がひょっと見て、「お、こりゃ小富に佐平じゃねぇか。佐平は知らねぇが小富は先から次郎長と揉めていた。こらあやったたのは次郎長にちげーねーぜ」ということになれば捕まって島流し、死ぬまで清水の土を踏むことができなくなるかも知れない、そんなことになったらどうしよう。
と思って青くなったのである。
だから人間は短気を起こさないでよくよく考えてから行動する必要があるのだが、今頃、そんなことを言っても遅い。じゃあどうすればよいのか。
困った次郎長と金八は国を売って旅に出ることにした。
と言うと、「次郎長が国家を裏切って、他国に機密情報などを売り渡し、その売却益で旅行した」と云う風に聞こえるがそうではない。
ここで云う、国を売る、というのは、その土地・その場所を竊かに去ることで、簡単に云えば出奔するという意味であるが、やくざの場合、格好をつけて、国を売る、と云うのである。
そうして、国を売って他国(今で言う他府県のこと)へ逃げ込む。そうすると管轄する奉行所や代官所が違うので、捜査の手が及びにくくなる。しかしその間、どうやって生活するのか。宿泊費や食費、はどうするのかと言うと大丈夫、そその土地土地の親分・顔役の家を尋ねていくと、そこで一泊させてくれて飯を食わせてくれて、出発の際には草鞋銭(電車賃程度の銭)を持たせてくれる。自分が気に入って先方も大丈夫であれば、しばらくその家に留まって賭場の手伝いなどをして過ごすこともできるが、次郎長のように捜査の手が及ぶ可能性があったり、既に手配書が出回るなどしている場合(之を急ぎ旅と云う)は、そういう訳にもいかないので、次の宿・次の土地に向けて出発する。その場合、泊まった土地の親分が次の土地の親分に紹介状を書いてくれることもあった。
そうしたことをする人を、旅人、と云った。
ところで、そんなことをしていたら土地の親分は出費が嵩むばかりで損ではないか、と思われるかも知れない。だがそんなことはない。
どういうことかというと、旅人によくしておけば、行った先々で、「あの親分はいい」と言って歩いてもらえるからやくざ社会での評判が良くなって男が上がる。
あべこべに金がかかるからとろくなものを食べさせなかったり草鞋銭をけちったりなんかすれば、「あの野郎はしみったれだ」と言い触らされて、男が下がる。
やくざ社会という者は、腕力がものをいう世界だが、その一方で虚飾、見栄を張ってなんぼうの世界でもあるから、そうやって旅人の面倒を見る、というのはあながち損するばかりではなく、よくしておけば多大なる広告宣伝効果が見込まれたのである。
という訳で次郎長は旅人になった。十四の時以来、これが二度目の出奔ということになるが、以前と違うのは無宿となったということである。
どういうことかというと次郎長は折り合いの良くなかった妻に離縁状を書き、そして人別帳(今で言う戸籍)から自分の名を消した。これを当時、勘当、と言った。これにより次郎長は無宿すなわち戸籍のない人となったのである。
いったいなんのためにそんなことをするのか。
当時は重罪を犯した場合、家族にまで罪が及ぶことがあったので、それを防止するためにやくざはみな周囲の者に累が及ぶのを恐れてこうしたのである。
次郎長はそれを自ら主導して行い、同時にすべての財産を姉夫婦に贈与した。
これは財産保全のためで、短気ではあるが、ある面では周到で緻密な次郎長らしい配慮と言える。これらによって次郎長は博奕好きの米屋の主からいよいよ本物のやくざになったのである。
ということでいよいよ引き返すことができなくなった次郎長が、 足の向くまま西東、と宿外れまで来て立ち止まり、
「さあ、どこへ行こうか」
「どうしようかねぇ」
と金八と計っているところ、後から、
「おヽい」
と声を発しながら追ってくる者があった。
「すは、追手か」
と一瞬、身構えた次郎長と金八であったが、すぐに、「なんでぇ」って顔になった。
追いかけてきた二人は、かねてよりの博奕仲間、江尻の熊五郎、庵原の広吉であった。
二人は追いつくなり次郎長に言った。
「次郎長、おめえ、旅に出るんなら俺たちも一緒に連れてってくんねぇ」
「なんでだ。手めえらも人を殺したのか」
「人聞きの悪いこと言うねぇ、殺しゃしねぇ」
「じゃあ、なんで旅に出るんだ」
「決まってらあ、男を磨きてぇからよ、なあ」
「そうだとも」
と、脱力すること言って意気がる二人の気楽な顔を見ながら、
「いいってことよ。大勢いた方が賑やかでいいやな」
と次郎長が言ったのは本心であった。なにしとろ初めての旅、土地の親分のところに行って仁義を切るのも、ちゃんと形になるのかどうなのか心細いところ、知った顔が傍に居れば心強いと思ったのである。しかし。
傍らの金八は浮かぬ顔であった。
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