四
この頃の大隈の政敵は駐米大使の星亨だった。星は弁護士出身の四十九歳。大隈より一回り下の世代だが、何ら物怖じせず、大隈を批判してくる。
大隈が組閣したと聞いた星は、首相兼外相である大隈の許可を得ることなく、ワシントンから一方的な辞意を電報で表明し、帰国の途に就いた。
国内の役職ならまだしも、米国で仕掛かりの仕事を放りだし、政争のために帰国した星に大隈は激怒した。駐米大使という要職にあるため米国側に迷惑も掛かる。こうした無責任な行為は大隈の最も嫌うところで、辞表の受理を拒み、関係者に「星を即刻送り返せ」と命じた。
だが八月十五日に帰国した星は辞任の意志が固く、帰任命令を出しても頑として聞かない。これ以上、意地を張り続けても米国に迷惑を掛けることになるので、大隈は九月十三日に辞表を受理した。
それでも自由党系議員の多くが星の政治家としての能力を評価しており、また板垣の気力の衰えもあり、星を入閣させ、外相に就けたいという意向を示した。
だが星自身は全く違った考えを持っていた。たとえ大隈が入閣を認めても、大隈の下では力が発揮できないと見切った星は倒閣に乗り出したのだ。
しかもこの頃、大隈の腹心の尾崎行雄文相が、共和政体に憧憬を抱くような演説を行ったことで、保守系マスコミがこれを「不敬」として糾弾した。尾崎は「仮に」と前置きしてから「共和政体だったら云々」と言っただけで、共和政治の肯定など微塵もしていなかったが、見事に言葉尻を捕られたのだ。
星は板垣を通じて尾崎の辞任を要求した。さすがに天皇も共和制には反対なので、尾崎を辞任させることに合意した。
この時、内相の板垣からの尾崎罷免要求の上奏に対し、天皇は総理大臣である大隈に可否を問い合わせなかった。常であれば、天皇の信任が得られていないということで総辞職ということになるが、大隈にはまったくその気がない。そんな大隈にマスコミなどは「鉄面皮」などと罵声を浴びせたが、大隈は馬耳東風だった。
大隈は国民のために政治を行っているのであり、天皇の顔色をうかがうつもりはなかったからだ。
せっかく誕生した政党内閣なので、大隈は何としても実績を挙げたかった。むろん短命で終わらせるつもりなどない。だが大隈が尾崎の後任の文相に、大隈子飼いの犬養毅を就任させると、板垣内相ら自由党系の三閣僚が抗議の辞任をした。大隈が犬養を指名すると読んだ星の痛烈な一手だった。しかも水面下で、星は山縣と手を組み、山縣が組閣した際の支援まで約束していた。
それでも大隈はあきらめない。大隈は三閣僚の補充を進歩党系で行うべく候補者を上奏したが、今度は天皇が認めない。天皇は大隈と板垣の連立内閣は認めたが、大隈単独の内閣は認めないという方針だったからだ。その背後には、天皇の好悪の感情があった。天皇は西郷隆盛のような寡黙な武人を愛し、大隈のような饒舌な政治家を嫌う傾向があった。
天皇の拒絶に遭い、遂に観念した大隈は十月三十一日、辞表を提出した。最初の政党内閣は、わずか四カ月という短命で終わった。
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