「相談できる薬局」を構想
さて、具体的に独立を決心した中沢さんは、新宿から各駅停車で5つめの駅である阿佐ヶ谷の薬局に転職。そして自身も、新宿のラブホテル横にあるマンションに引っ越し、体力づくりも兼ねて自転車で通いつづけた。
そして仕事終わりや休みの日には歌舞伎町やゴールデン街でひたすら飲み歩き、とにかく「街の空気」を吸った。たくさんの顔見知りができるなかで「やっぱりこの街には『夜に相談できる薬局』のニーズがある」と感じ、開局への思いを深めていったという。
中沢さんには、開局の構想を練っているとき、頭から離れないものがあった。
「高校のときからかな、『こころや身体のことを気軽に〈相談〉できる場所って、絶対必要だよな』とは、ずっと思っていたんですよ」
映画好きな高校生だった中沢さんが、将来の進路として医療者を視野に入れはじめたときには、医師、看護師、歯科医師、薬剤師などさまざまな選択肢があった。いずれも専門職だし、それぞれ魅力的だ。
でも中沢さんは
「みんなが相談しやすいのは薬局かな。
薬局みたいなところに、いつも相談できる同じひとがいればいいのにな」
と考えて、薬剤師の道に進んだという。「深夜」という構想こそなかったにしても、やりたいことの根っこは、高校時代から一貫していた。
そして、「夜こそ薬局が必要だ」という確信は、長らくあたためていた「相談」というキーワードともピタッとはまった。
阿佐ヶ谷の薬局は、開局資金が貯まったらやめようと決めていた、目標は、1000万円。独立を考えてから一貫して、お金は借りずにすべて自己資金でまかなうことを決めていた。ちなみに、このポリシーは現在も貫いている。それもあって、構想を練りはじめてから目標金額を達成するまで、およそ10年かかった。
そしていよいよ目標金額に届きそうになった、2013年7月。
「いよいよだな」と思い、会社設立に必要なものを知るために、新宿の紀伊國屋書店まで本を買いに行った帰り、不動産屋があったので、なんとなく、入った。すると、
「ちょうどそこ、ほら、中華弁当屋だったとこが空いたけどどう?」
と話しかけられた。その弁当屋のことは覚えていたので、「ああ、あそこか」と思ったという。
独立を志していたから不動産情報はしばしば耳にしていた。だから、歌舞伎町では物件が空いても、うかうかしていたらすぐに埋まってしまうことがわかっていた。
「で、その日のうちに決めちゃいました」
人通りの多さで言えば花道通りの南側、1丁目側が理想的だ。けれど人通りが多い分、とても払えるような家賃ではない。だから2丁目側、よりディープな夜の街のほうになるだろうなとは、もともと思っていた。想定どおりになったと言えるだろう。
ほかの物件も見なかったわけではない。
「一応、花道通り沿いの2階の物件も見ました。でも2階って、どうしても心理的にハードルが高いじゃないですか。中が見えないし。それでいまのところに決めました」
たしかに「わざわざ階段をのぼらないといけない」「中が見えない」となると、結局は「明確な用事があるひと」しか訪れない場所になってしまう。気軽に相談しに来てほしいのに、それでは、いままでの薬局と変わらない。
じゃあやっぱりさっきの元弁当屋の場所だと、腹を決めた。自分がすべきだと感じたこと、したいと思ったこと、合理的だと考えることには粛々と向かっていく中沢さんだけれど、さすがに「ここに決めます」と言ったときには武者震いしたという。
「自分の人生、これからどう動くんだろうって。
こういうときの人間って、文字どおり、震えるんですね」
「そうは問屋が卸さない」?
そこからは猛スピードでことが進んでいった。9月末に会社を設立。開局までの3ヶ月は、仕事終わりの夜や定休日を使い、契約を結んだり内装の打ち合わせをしたり、と休みなしで動いた。12月いっぱい、前の会社にいて、開局は年明け早々となった。ほぼ空白期間はなしだ。有休も、1日も使わなかった。
しかしこの開局準備、とんでもない紆余曲折があった。いちばん大変だったのは薬の調達だ。まず、「歓楽街にある深夜薬局」は参考になる前例がない。だから、どの薬をどれくらい仕入れればいいのかもわからない。
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