作ることは「わかっていたつもりがわかっていないことを知る」の連続

新型コロナウィルスの今、たくさんのつらいことがあるけれども、そのひとつに「ちょっと先の約束ができない」っていうものがある気がします。連載第49回、サクちゃんは「『どうなるかわからないから期待するのをやめよう』と、諦めるクセがついてしまっているかもしれません」って言っていました。期待するっていうこともやっかいですよね。諦めきれない。あと……写真のパンダ……かわいいな……。(毎週火曜日更新)

蘭ちゃんへ

こんにちは! 東京も寒いです。寒いのはいやだけど、「冬は寒い」という当たり前のことが当たり前に起こるということに、すこしホッとしているような気もします。

この1年、無数の「思ってたのとちがう」がありました。「思ってたのとちがう」という期待と現実との差に、人は傷つきます。ひとつひとつは小さな差でも、1年分溜まるとかなりの量なのではないかな。つまり、みんな知らないうちにたくさん傷ついて、とても疲れているのだと思います。

そして、「どうなるかわからないから期待するのをやめよう」と、諦めるクセがついてしまっているかもしれません。先のことを楽しみにできないというのは、とてもしんどいなと改めて感じています。

人々から希望やワクワクを奪った感染症が蔓延するこの世界のことを、自分に力が湧いてこなくなってしまったことも含めて、おぼえておかないといけないなと思います。

*ー*ー*

マスクもすっかり当たり前アイテムになりましたね。わたしも蘭ちゃんと同じく、不織布の白いマスク派です。そういえば布やウレタン素材の色のついたマスクは使ったことがないですね。

あまりよく考えたことがなかった、というか、よく考えるほど興味がないのだと思います。わたしにとってマスクは「しないといけないからしているだけで、どうでもいい」ものなので、一番無難で個性が出ないものを選んでいるのかな。

マスクは、必要だけど単なる義務で、機能は求めるもののそこに快適さを求めていないんだなとわかりました。そういうものに対しては「選んでいる」というより「イヤじゃなければいい」と消去法で手に取っているんだな。

マスクがどうでもいいものというのに相反して、どうでもよくないものは、つまり「自分で選びたい」ものです。ここまでのやりとりの流れに沿っていうと、「快適さを求める範囲」ということかな。たとえば、服や寝具、食べるもの、髪型、スキンケアなどは、自分に合うものが快適なので、自分で選びたいです。

*ー*ー*

わたしは前回、いらないものを減らして、快適なものを選ぶのが「ご自愛」だ、と書きましたが、それに対して、その先にさらに「歓喜」という予測不可能な喜びのかたちがあるのでは、と蘭ちゃんは掘り進めてくれましたね。

「歓喜」って、「驚きを伴うよろこび」というイメージなのだけど、日記のこの部分を読んだときに、ある歌詞が浮かびました。

「声をあげて飛び上がるほどにうれしい そんな日々がこれから起こるはずだろ」(フィルム/星野源)です。

そしてこの歌詞は、「どんなことも  消えない小さな痛みも 雲の上で笑って観られるように どうせなら作れ作れ 目の前の景色を」と続きます。

死んだ後に振り返ったときに笑って観られる映画を作るように、今生きているうちに起こることは自分の手で作れ。ということかなとわたしは解釈しています。

この歌詞や、蘭ちゃんのいうように、驚くようなよろこびは、自分の手でなにかを作ることと繋がっているのでしょうね。ものを作ることもそうだし、用事や関係性を作ることも含めて。

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わたしは、文章に関しては「こんなものを書きたいと目指して、そのとおりに書けて、驚くほどうれしい」というような経験がほとんどないのですが(残念)、10年前に自分でお店を作った経験があります。

お店を作るときに大事なのは、頭の中にあるイメージを、どこまで細かく具体化できるかということでした。

たとえば、「やさしい雰囲気で、大人も子供も気軽に来られるお店」というイメージがあったとき、それを作るのは商品だけではなく、言葉(コピー)だけでもなく、壁紙や照明、店員さんのシャツの素材、テーブルの高さ、店内の匂いや物の密度、ボールペン1本にまで無数に至っています。

どこまで解像度を上げて細部にまで「そのお店らしさ」をもって選べるかが問われます。神は細部に宿るといいますが、まさにそういう感じです。

イメージはバッチリなのに、いざひとつだけ選ばないといけない、という状況になると、迷ってしまって選べない。見えていたようでまだまだ解像度が粗いのだと突きつけられる。または、理想と現実的にできること(主に予算)が合わない。一事が万事、その繰り返しでした。

作ることは「わかっていたつもりがわかっていないことを知る」の連続です。

あたまの中にあるものを作りだすとき、あたまと手を繋ぐたびに常に問われ続けるので、まさに蘭ちゃんのいうように「作る」というのは「自分を知る」作業なのだと思います。

*ー*ー*

お店を作ったのはもう10年も前のことですが、今、わたしが作りたいものはなんだろう?と考えてみました。

考えてみたと言っている時点で「作りたい」と湧いてくるものはないのが明らかですが、ここで諦めずに、ちょっと掘り下げてみます。

作るというのを「あたまの中にあるものを取り出す」作業と、「作ったものを誰かに届ける」作業の両方だとすると、前者は「自分のため」、後者は「誰かのため」の要素だと思うのです。

そして、そのバランスが偏っていると、作るのが(完成が)難しいのではないかとも思います。

「作りたい」と純粋に思えないのはなぜかというと、わたしは生粋の「叶え組」気質なので、何をするにもつい「誰かのため」に、役に立つとか、喜んでもらえることを重要視してしまうからだと思います。

「誰かのため」に作りはじめることはできても、「自分のため」が薄くて、自分が楽しくないから続けるのが苦しくなるパターンです。

今までのわたしにとって「自分のため」は「お金になること」でした。「お金にならないことに時間をつかうのはよくない」という思いがつよくて、実際にシングルマザーなので、いつも必要な金額を稼ぐことで精一杯だったからだと思います。たしかにそれは自分のためではあるけれど、楽しいことではありません。

お金にならなくても、役に立たなくてもいいから、あたまの中のものを出して何かを作るとしたら……なんだろう。物語、かな。自分自身のことではない、でもわたしのあたまの中から出てくるものを見てみたいという気持ちがあります。

うーん、でもまだぼんやりしているな。きっと、今もまだ人の倍稼がないといけない状況にいるからか、お金にならなくてもいい時間の使い方に、許可ができていないのでしょうね。

蘭ちゃんはどうですか? 今作ってみたいものは、または作っているものはなんですか?

それでは、またね。

サクちゃんより

追伸:かわいい食べものに弱いので、こういうのをつい買ってしまう。目が合うんだもん。娘のあーちんは「顔がついてると食べづらい」と言いながら食べていました。


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サクちゃん蘭ちゃんのそもそも交換日記

土門蘭 /桜林直子

東京でクッキー屋さんをしている「桜林直子(サクちゃん)」と、京都で小説家として文章を書く「土門蘭(蘭ちゃん)」は、生活も仕事も違うふたりの女性。この連載は、そんなふたりの交換日記です。ふたりが気が合うのは、彼女たちに世界の「そもそも」...もっと読む

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