板垣さんは正直なお方だ」| 至誠通天(二)

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。青年期から最晩年まで、「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、令和版大隈像をお楽しみください。


 創立から十五年経ち、東京専門学校は順調に学生を増やしていた。ところが大隈は自らの資金で設立したにもかかわらず、式典などに参加したことはなかった。

 その理由は明白だった。東京専門学校に政治イデオロギーを持ち込みたくなかったからだ。つまり学生が大隈の進歩党を支持しようがしまいが、いっこうに構わないという姿勢を貫いていた。

そんな大隈も、創立十五周年記念式典では、学校側から懇請されて演説することになった。

 この時、大隈は「社会に出るのは武士の初陣と同じで難しい。社会には伏兵も多くいるはずなので必ず失敗する。だが失敗に落胆はするな。失敗は糧となり、必ずや成功に結び付く。失敗こそが学びの機会であり、社会という大洋を航海するには、学問という羅針盤が必要であり、社会に出ても学問をやめてはならぬ」といった内容の演説を行った。この演説は絶賛され、拍手が鳴りやまなかったという。

 大隈は後に東京専門学校や改称後の早稲田大学の式典に参加することも多くなるが、演説の場を設けられても、政局に関する話は極力避けていく。

 明治三十一年(一八九八)一月、松方内閣が倒れた後、伊藤が第三次内閣を組織することになる。この時、伊藤は大隈に外相としての入閣を要請するが、大隈は内相を要求し、また進歩党員に三つの大臣の椅子を用意するよう求めた。

 一方、同じように入閣を求めた板垣にも内相の座を要求された伊藤は怒り、二大政党の協力がないまま内閣を発足させた。この時、伊藤は海相の西郷従道以外、長州藩閥から大臣を出したため、国民からは「まだ藩閥政治をやっているのか」という声が上がった。

 こうした政府の動きに対し、自由党と進歩党が接近を始める。いつまで経っても終わらない藩閥政治をやめさせるためには、手段を選んでいる場合ではなかったからだ。

 六月、両党合同後の綱領が策定され、いよいよ合同が具体化した。これにより倒閣と政権奪取が現実味を帯びてくる。

同月には大隈と板垣が合同演説会を行い、自由党と進歩党が合体した憲政党が設立される。

同時に伊藤は内閣を解散し、大隈か板垣のどちらかを後継首班となすべきと天皇に上奏する。

その結果、同年六月三十日、日本最初の政党内閣となる第一次大隈内閣が誕生する。


政府庁舎にある会議室で、板垣は煙草をふかしながら待っていた。

「お待たせしました」

「ああ、大隈さん、待ってはいませんよ。一人になりたくて早めに来ていたのです」

 二人が固い握手を交わす。板垣は大隈より一つだけ年上になる。

「板垣さん、これまでいろいろありましたが、いよいよ日本初の政党内閣を発足させられることになりました」

「はい。長い道のりでしたが、ともかくも藩閥政治を終わらせることができました」

 これまでさほど交流のなかった二人だが、藩閥政治を終わらせるという一点においては共通していた。

「しかも板垣さんは、私に首相の座を譲ってくれました」

 勅命では明確に「どちら」という指定がなかったため、両党の間で早くも内輪もめが起こりそうな雰囲気になったが、板垣がいち早く「自分は外交上の儀式典礼に通じる暇がなかったので、内相に就く」と言って、大隈に首相の座を譲った。

 板垣が大隈に視線を据えて言う。

「薩長出身者以外の初の首相の座には、やはり大隈さんが適していると思いました」

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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