一故人

半藤一利—編集者から「歴史探偵」になるまで

編集者や作家として活躍し、昭和史について多くの本を世に問うた半藤一利。その若き日から作家たちとの交流、そして晩年の想いまでを今回の「一故人」は綴ります。

オリンピック出場を逃す

1951(昭和26)年9月9日。米サンフランシスコのオペラハウスで時の首相・吉田茂が講和条約(対日平和条約)に調印したのは、日本時間でこの日午前3時44分(現地時間では8日午前11時44分)のことだった。この条約は翌1952年4月28日に発効し、日本—ただし沖縄や奄美諸島などを除いてだが—は敗戦以来7年続いた連合国による占領から解放される。

まさに昭和史のエポックとなる日だが、昭和史研究で知られる作家の半藤一利(2021年1月12日没、90歳)にとっては、別のできごとにより生涯忘れられない日となった。東京大学文学部の3年生だった彼はこの日、ボート部の一員として出場した全日本選手権で決勝まで進むも、慶應義塾大学に僅差で敗れてしまったからだ。この年に優勝したチームは、翌夏のヘルシンキオリンピックに日本代表として出場することが決まっていた。

1940年に予定されていた東京オリンピックが日中戦争のため返上されると、ヘルシンキでの代替開催が決まったものの、結局、第二次世界大戦の勃発により次の1944年大会と連続して中止となる。大戦終結後の1948年のロンドン大会には日本とドイツは招待されなかった。1952年のヘルシンキ大会は我が国にとってじつに16年ぶりのオリンピックとあって、半藤は代表を逃したことをのちのちまで口惜しがった。

東大は前々年、前年にも優勝した強豪であり、部員たちはこの年も勝つ自信があった。それがなぜ負けたのか? 半藤は後年、敗因として、レースの数日前に練習しているところを慶應側に偵察され、自分たちのクルーがコースの真ん中でスパートを20本(漕ぐ回数)やったあと、艇速がガクッと落ちるのを見抜かれたことをあげた。慶應はここから作戦を立て、東大の艇速が落ちたところを突いてスパートをかけると、そのまま最後までペースを落とさずに漕ぎ通したのである。普通、そんなことをやったら息が切れて体力が続かない。しかし、慶應はそれができたから東大に競り勝った。半藤はこれについて《やつらは金持のセガレが多いからうまいものをたっぷり食っていた(笑)》と、60年以上あとになってもなお負け惜しみを口にした(『昭和史の10大事件』)。

たしかに敗戦から6年が経った当時もまだ食糧事情は悪く、半藤たちは空腹に耐えながら猛練習に打ち込んでいた。ただ、事情は慶應も変わりはなかった。ヘルシンキオリンピックに出場した元部員の一人は、《合宿所ではいつも腹を減らしており、先輩からの差し入れなどでメシを腹一杯食えたらありがたい、という時代でした》と証言している(小林哲夫『大学とオリンピック 1912-2020』)。

ともあれ、オリンピックこそ逃したものの、半藤が大学卒業後、出版社の文藝春秋に入社できたのはボートのおかげだという。このころ、ボート部の大先輩である岸道三という実業家が、自身の人脈から部員たちの就職の面倒を見てくれていたのだが、半藤だけなかなか進路が決まらない。一応、新聞記者志望だったものの、気づいたときには大半の新聞社が願書受付を締め切っていた。そのとき、文藝春秋が公募していると知り、一次試験の会場が東大の本郷キャンパスだったこともあって受験する。

一次試験をパスして、次は面接というとき、岸が学生時代の友人である作家の高見順を介して、文藝春秋の当時の専務・池島信平に話をしてくれた。結果、無事に入社が決まったのだが、あとで知った話では、じつはこの年、会社側は本チャンのスポーツ選手を一人採ってみるかとひそかに考えていたらしい。

東京大空襲で九死に一生を得る

東大のボート部員は練習を行なう隅田川の東岸の向島にある艇庫で合宿し、大学にもそこから通っていた。向島には半藤の実家もあった。彼は1930年にこの町で生まれ、少年時代の大半をすごしている。

少年時代はガキ大将で、近所の子供たちとよく相撲をとったという。太平洋戦争中の1943~44年頃、遊んでいるとよく「入れて」とやって来る目玉の大きな男の子がいた。まだ4つか5つなのに足腰が強いその子は、相手に押されても、土俵際でうっちゃった。六丁目の交番前の小さなラーメン屋の息子だというその少年は誰あろう、のちの世界のホームラン王・王貞治であった。

王よりちょうど10歳上の半藤は当時、東京都立第七中学校(現・墨田川高校)に通っていた。もっとも、戦時中には中学生も軍需工場へ勤労動員に駆り出され、勉強どころではなかった。

1945年3月10日未明の東京大空襲では、東京の下町が大きな被害を受けた。向島一帯も火の海となり、父親とはぐれた半藤は家の東側の中川のほうへ逃げた。中川に架かる平井橋という橋を真ん中まで渡ったものの、その先にも黒煙が立ち込め、進めない。そこへちょうど橋の下にやって来た船に助けられた。しかし、船上から川で溺れかけている人たちを助け出していたところ、身を乗り出しすぎて川に落ちてしまう。危うく溺れかけたが、何とか水面に顔を出し、そこへ運よく通りかかった別の船に引っ張り上げられ、九死に一生を得たのだった。

朝になって、真っ黒になった焼死体をいくつも目にしながら、すっかり焼けた家の跡まで戻る。このとき、呆然と焼跡にたたずみながら、つくづくと思った「なぜ、こんなことが?」という問いが、のちに半藤を戦争の実相を探る仕事へと駆り立てた(『日本海軍の興亡』)。

家を失った半藤はそれから母の郷里である茨城県下妻、さらに父の郷里である新潟県長岡に疎開し、地元の長岡中学に転入、そこで終戦を迎える。このとき仲間の一人から「日本人の男は全員、カリフォルニアか南の島に送られて一生奴隷として働かされる」と聞かされた。帰宅して父にそれを伝えると、「馬鹿もん、何を考えているのか。日本人を全員カリフォルニアに連れていくのに、一体どれだけの船がいるか」と一喝され、目が覚めたという(『くりま』2009年9月号)。その父は半藤が浦和高校から東大に入学してまもなく亡くなった。

東大の卒業論文は「堤中納言物語の短編小説性」というテーマで提出した。じつは当初は「万葉集にみる大化の改新と壬申の乱」をテーマにするつもりで、大学の友人たちにも豪語していたが、「万葉集はやめろ」と止められた。なぜかと訊けば、同級生のなかに万葉集を全部暗記している「万葉集のお化け」がおり、彼とくらべられたら卒業も危うくなるぞと言う。それでこのテーマで書くのは断念した。

「万葉集のお化け」とは、のちに国文学者となり、新元号「令和」を発案したともいわれる中西進のことだった。後年、中西と聖徳太子をテーマに対談した半藤は、政治の主導権争いから崇峻天皇を暗殺した蘇我氏のバックには聖徳太子がいたのではないかと自説を披露している(『日本史はこんなに面白い』)。これは、文藝春秋の見習い編集者時代に出会った作家・坂口安吾から聞いた話をもとにしたものであった。

安吾から「歴史探偵学」を教わる

半藤が文藝春秋に入社したのは1953年。同社が戦後、佐佐木茂策と池島信平のもとで再出発して7年目だった。入社早々、『別册文藝春秋』の編集長から、群馬県の桐生に住む坂口安吾のところへ行き、原稿をもらってくるよう命じられる。

家に着くと、安吾はすっかり原稿のことを忘れていた。今晩仕上げるからと言われ、そのまま家に泊めてもらったが、結局、1週間滞在することになる。原稿は待たされたが、その間、毎晩のように酒を飲みながら安吾から話を聞くのが楽しかった。蘇我氏の話もこのとき出てきた。

《日本の古代史は探偵小説みたいなものさ。だから、記紀[引用者注:『古事記』と『日本書紀』]の記事をもって、これが史実だときめこんで、証拠の真偽の基準にする、しかもそれに疑いをもたない歴史家なんて、信ずるに足らんのじゃよ。要は自分なりの探偵眼を働かせることじゃな。キミみたいな雑誌の編集者にはとくにそれが大切ということなんだなぁ》『文士の遺言』

安吾からそう言われ、半藤は目が開かれる思いであった。《史料と史料を重ね合わせて、なおかつそこの行間に、ごく常識的な推理力を働かせることによって、本当の全容が浮かび上がってくるもんだという、いわゆる「歴史探偵学」》を彼はこのとき教わったのである(『くりま』2009年9月号)。

翌1954年、月刊誌『文藝春秋』に異動となる。同誌はその5年前、1949年6月号に掲載された「天皇陛下大いに笑う」と題する座談会が評判を呼び、部数を一気に増やしていた。半藤によれば、『文藝春秋』が部数を伸ばした要因はそれだけでなく、その前の号で「日本を震撼させた四日間・二・二六事件 青年将校の回想」と題する手記を載せて以来、毎号、昭和史や太平洋戦争を検証する記事をとりあげたことも大きいという(『戦後日本の「独立」』)。戦争が終わり、国民のあいだでリアルタイムでは知り得なかった戦前・戦中のできごとの真相を知りたいというニーズが高まっており、一連の記事はそれに応えたのである。

半藤も同誌に移ると、歴史の当事者たちに取材して口述筆記を多数こなすことになる。さらに入社4年目の1956年、今度は単行本を編集する出版部に異動すると、安吾に続く出会いがあった。戦前に時事新報の海軍記者として活躍した伊藤正徳の担当になったのだ。ちょうど伊藤は産経新聞で、戦前・戦中の海軍の動向を検証する連載を始めようとしていた。半藤はその手伝いを頼まれ、会社での仕事と並行して取材を引き受ける。

旧海軍の提督や参謀などに話を聞いては、メモを取材レポートにして伊藤に渡すと、「ありがとう、使えるよ」と言われることもあれば、「これはダメだよ、この人は一つも本当のことをしゃべっていない」と言われることもあった。そうしたやりとりのなかから、《取材するというのは、ただ話を聞いてくればいいんじゃない。ある程度、勉強していないと、嘘をつかれても信じてしまうことになると》学んだという(『橋をつくる人』)。ここから半藤は、昭和史や太平洋戦争について猛勉強を始めた。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

kida_777 【良記事】 10日前 replyretweetfavorite

taka4th |近藤正高 @donkou |一故人 https://t.co/MtZ7w5OwYK 12日前 replyretweetfavorite

donkou 「一故人」も最新回が本日更新されました。今回は作家で文藝春秋の元編集者の 13日前 replyretweetfavorite

makarena3 気になる  13日前 replyretweetfavorite