一故人

やなせたかし—「困ったときのやなせさん」の絶望と転機

みんなのヒーロー・アンパンマンを生み出したマンガ家のやなせたかし。その歩みを辿ってみると、永六輔、吉行淳之介、羽仁進、向田邦子、手塚治虫など思わぬ人物との交錯があったことが見えてきます。アンパンマンの誕生に至るまで、そして無数のキャラクターを描いたそれからの人生について――ぜひ読んでみてください。

「手のひらを太陽に」を生んだ“絶望”

「手のひらを太陽に」といえば、マンガ家のやなせたかし(2013年10月13日没、94歳)が作詞し、ヒットメーカーであるいずみたくが作曲したものとして知られる。この歌はもともと1961年に、やなせが番組の構成を担当していたNET(現・テレビ朝日)のニュースショーで、歌手で女優の宮城まり子が歌ったものだ。翌62年にはNHKの『みんなのうた』でもとりあげられた。

やなせはこの歌をつくったとき、心身ともに不調で、「自殺したいくらいだった」という。それは冬のことで、絶望的な気持ちに陥りつつ、かじかむ手を電気スタンドで温めながら仕事をしていたところ、ふと自分の手の指と指のあいだに真っ赤な血が流れるのが、電球の光で透けて見えた。

《ぼくは自分の才能にも、また運命にも、その頃おきたいろんなトラブルのことにも、自分自身についても全く嫌気がさしていたが、それなのになんとぼくの血はまっかで元気そうに動いているのだろう。こんなに血が赤いのに、ぼくはまだ死んではいけないなとその時に思った》(『てのひらを太陽に』)

スランプとはいえ、この当時、やなせには仕事がなかったわけではない。むしろ多忙をきわめていた。1919年生まれのやなせより3歳下の水木しげるが、『ゲゲゲの鬼太郎』のヒットまで40歳すぎまで貧乏暮らしを送っていたのとは対照的に、やなせは《どん底の貧乏は経験したことがなく、なにもかも中くらいだった》と語っている(『アンパンマンの遺書』)。

やなせの絶望の原因は何だったのか。それは端的にいえば、ずっとマンガ家を自認しながらも、肝心のマンガの仕事は少なく、いつまで経っても代表作と呼べるようなものを生み出せない焦りから来るものだった。

自分は不器用だとことあるごとに語っていたやなせだが、むしろ器用貧乏というべきか、「困ったときのやなせさん」「速書きやなせ」などと名づけられるほど、何事もそつなくやってのけてしまうことがかえって災いしたのかもしれない。そんな彼が、どうやって『アンパンマン』という代表作を得るまでにいたったのか、その経緯をちょっとたどってみよう。

永六輔、羽仁進、手塚治虫……思いがけない人たちからの仕事の依頼

やなせは東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)を卒業したのち、1939年に田辺製薬の宣伝部に入ったものの翌年に徴兵され、中国大陸での厳しい行軍ののち上海で終戦を迎える。1946年に引揚げてくると、郷里の高知新聞社に入社して1年間勤務。翌47年、先に上京していた元同僚の女性(のちの暢夫人)の下宿に転がりこみ、百貨店の三越の宣伝部に入る。当時よりデザイナーかマンガ家志望だったのに就職したのは、貧乏するのがいやで、まずは食べられるようにならなければと考えたからだった。

三越で現在も使われる包装紙は、宣伝部時代のやなせがデザインしたものだという話を、ときおりネットなどで見かけるが、厳密にいえば違う。デザインしたのは洋画家の猪熊弦一郎である。やなせはその原画というか、白い紙の上に紅い紙を切り抜いて置いたものを受け取り、猪熊の指定どおり紅い模様に「Mitsukoshi」と筆記体でロゴを書き入れたのだ。これが1951年のことで、2年後には退職、フリーランスのマンガ家として再出発した。すでに三越在職中より、本業を早々に片づけると、せっせと副業に励んでいたという。退職の理由も、副業の収入が月給を上回ったことが大きかったようだ。

このころ、若手マンガ家だった小島功を中心に結成された「独立漫画派」に参加、その事務所に通っては仲間たちと活発に交流する。副業も、主に事務所に出入りする人たちから得ていた。のちに芥川賞をとる作家の吉行淳之介もそのひとりだ。吉行は当時『モダン日本』という雑誌の編集長を務めており、やなせに取材の仕事などをよく回してくれたという。

吉行にかぎらず、やなせが1950年代から1960年代にかけてかかわった人物はいちいち豪華だ。フリーになってまもなく、前出の宮城まり子にインタビューしたところ、直後にいきなり家に招かれ、彼女の初めてのリサイタルの構成を頼まれた。もちろん、やなせには舞台の構成の経験などなかった。しかしこれを引き受け、その後も宮城のステージについていっては構成や司会を担当するようになる。

放送作家・タレントの永六輔もまた、やなせが取材記事でたった1行触れたことがきっかけで、突然やなせ宅を訪ね、ミュージカル『見あげてごらん夜の星を』の舞台装置の制作を依頼してきた。やなせとはのちに「手のひらを太陽に」をはじめ多くの仕事で手を組むことになる作曲家・いずみたくと出会ったのもこのときである。

映画監督の羽仁進は、開局まもない東京12チャンネル(現・テレビ東京)で1年間の連続テレビ映画をつくるにあたり、まったく面識のなかったやなせにシナリオライターとして参加してくれるよう頼んだ。『ハローCQ』というそのテレビ映画で、やなせは全話の3分の1ほどのシナリオを書き、主題歌も作詞した。

これと前後して、やなせは映画雑誌でもエッセイを連載していた。このときの担当の女性編集者が、雑誌廃刊後にシナリオを書いていることを知ると、『ハローCQ』でも何度か書いてもらい、やなせが手を加えるということもあった。この元編集者とは誰あろう、のちに人気脚本家・直木賞作家となる向田邦子だった。やなせは後年、「いま思えば冷汗もの」と振り返っている。

同業者でいえば、手塚治虫が長編アニメーション映画『千夜一夜物語』(1969年)を制作するにあたり、やなせに美術監督とキャラクターデザインを依頼している。アニメーションの仕事は初めてであったが、これも試行錯誤しながらも切り抜けた。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ケイクス

この連載について

初回を読む
一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

abbey_road9696 何気なく合唱していた「手のひらを太陽に」の歌詞は、 4年以上前 replyretweetfavorite

yadokari23eor #MyInterest 他5コメント http://t.co/c2keAv8rUV 4年以上前 replyretweetfavorite

yadokari23eor #MyInterest 他5コメント http://t.co/c2keAv8rUV 4年以上前 replyretweetfavorite