「そう来ましたか。さすが板垣さんだ」| 至誠通天(一)

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。青年期から最晩年まで、「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、令和版大隈像をお楽しみください。

第八章 至誠通天

 大隈が旧佐賀藩領に滞在したのは、四月二十五日から五月十七日までの正味二十二日間だった。地元の大歓迎に気をよくした大隈は、この間に精力的に各地を回り、演説や談話(小規模の座談会)を多数行った。各地は「満場水を打ったように静まり、感激の低声がしきりに漏れていた」という。とくに大隈は日本の将来像を描き、それに至るまでの道筋を具体的に示すので、大半の政治家が行うような、概念的で説得力を欠くような演説とは一線を画していた。

 佐賀からの帰途、大隈は関西にも滞在し、関西政財界の主要な人物たちと面談し、また演説や談話を行った。

 五月二十四日には、京都で松方正義と密会することになった。その仲介役を果たしたのは、またしても岩崎弥之助だった。


 京都の岩崎家別邸は、東京にある壮大な庭園とは裏腹に、こぢんまりとした風情ある屋敷だった。その庭園も慎ましい広さだが、そこから見える東山の借景は雄大で、ここから弥太郎が夕焼けの東山を眺めていたかと思うと、感慨深いものがあった。

 —土佐の荒海のように豪快な男だったな。

 自分の前にどのような障害があろうと、弥太郎は機関車のように突き進んだ。その姿が懐かしく思い出される。誰からも好かれたわけではなく、天才でも人格者でもなかった弥太郎だが、その野人のごとき情熱だけは、誰にも負けなかった。

 —自ら熱を発する男、か。

 東山を見ながら、そんなことを思っていると、弥之助が問うてきた。

「兄のことをお考えですね」

「ははは、図星です。あれほどのお方は二度と現れないでしょうね」

「そうかもしれませんが、兄はいくら富と名声を手にしても、満足してはいませんでした」

「というと、世界一の金持ちにでもなろうとしていたとか—」

「いいえ。その逆で『金など一銭も要らん』と言っていました」

「えっ、それは知りませんでした」

 弥太郎と親しかった大隈にも、それは初耳だった。弥太郎は「金こそ力」という言葉の体現者であり、金を稼ぐことに生涯をかけてきたと思っていたからだ。

 弥之助がしみじみと言う。

「兄は、金などより人々の支持や評価、すなわち賞賛の言葉がほしかったのです」

「ははあ、なるほど。金を稼ぐために頑張ったのではなく、岩崎弥太郎という男を評価してほしかったのですね」

「そうです。男などというものは、しょせんそんなものです」

 —分かる気がする。

 人というのは、終幕が近づくと他人の評価を気にするようになる。

「大隈さんはいかがですか」

「私も同じですよ。やはりこの年になると、自分の歩んできた道を振り返りますからね」

「大隈さんらしからぬお言葉ですね」

「やはりそう思いますか」

 二人が同時に笑ったので、庭にいた雀が一斉に飛び立った。その時、女中が襖の外から「松方様がおいでになりました」と告げてきた。

「お待たせしました」と言いながら、松方が大柄な体を折るようにして入ってきた。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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