第八章 至誠通天
一
大隈が旧佐賀藩領に滞在したのは、四月二十五日から五月十七日までの正味二十二日間だった。地元の大歓迎に気をよくした大隈は、この間に精力的に各地を回り、演説や談話(小規模の座談会)を多数行った。各地は「満場水を打ったように静まり、感激の低声がしきりに漏れていた」という。とくに大隈は日本の将来像を描き、それに至るまでの道筋を具体的に示すので、大半の政治家が行うような、概念的で説得力を欠くような演説とは一線を画していた。
佐賀からの帰途、大隈は関西にも滞在し、関西政財界の主要な人物たちと面談し、また演説や談話を行った。
五月二十四日には、京都で松方正義と密会することになった。その仲介役を果たしたのは、またしても岩崎弥之助だった。
京都の岩崎家別邸は、東京にある壮大な庭園とは裏腹に、こぢんまりとした風情ある屋敷だった。その庭園も慎ましい広さだが、そこから見える東山の借景は雄大で、ここから弥太郎が夕焼けの東山を眺めていたかと思うと、感慨深いものがあった。
——土佐の荒海のように豪快な男だったな。
自分の前にどのような障害があろうと、弥太郎は機関車のように突き進んだ。その姿が懐かしく思い出される。誰からも好かれたわけではなく、天才でも人格者でもなかった弥太郎だが、その野人のごとき情熱だけは、誰にも負けなかった。
——自ら熱を発する男、か。
東山を見ながら、そんなことを思っていると、弥之助が問うてきた。
「兄のことをお考えですね」
「ははは、図星です。あれほどのお方は二度と現れないでしょうね」
「そうかもしれませんが、兄はいくら富と名声を手にしても、満足してはいませんでした」
「というと、世界一の金持ちにでもなろうとしていたとか——」
「いいえ。その逆で『金など一銭も要らん』と言っていました」
「えっ、それは知りませんでした」
弥太郎と親しかった大隈にも、それは初耳だった。弥太郎は「金こそ力」という言葉の体現者であり、金を稼ぐことに生涯をかけてきたと思っていたからだ。
弥之助がしみじみと言う。
「兄は、金などより人々の支持や評価、すなわち賞賛の言葉がほしかったのです」
「ははあ、なるほど。金を稼ぐために頑張ったのではなく、岩崎弥太郎という男を評価してほしかったのですね」
「そうです。男などというものは、しょせんそんなものです」
——分かる気がする。
人というのは、終幕が近づくと他人の評価を気にするようになる。
「大隈さんはいかがですか」
「私も同じですよ。やはりこの年になると、自分の歩んできた道を振り返りますからね」
「大隈さんらしからぬお言葉ですね」
「やはりそう思いますか」
二人が同時に笑ったので、庭にいた雀が一斉に飛び立った。その時、女中が襖の外から「松方様がおいでになりました」と告げてきた。
「お待たせしました」と言いながら、松方が大柄な体を折るようにして入ってきた。
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