新宿駅東南口広場からのぞむ
新宿駅東南口改札を出て徒歩1分。甲州街道と首都高が交差する谷間の角に、築約50年のビルがある。赤いビニールのオーニングに「食堂 長野屋」の文字。
人から教えてもらい、初めて訪れたときの肉豆腐とポテトサラダのあまりの旨さ、居心地の良さ、気立てのいいお母さんと娘さんの振る舞いにしびれ、立て続けに3人の友達に長野屋のことを話した。みな、店名は知らなかったが、外観写真を見せると「ああ、見たことある!」。
それくらい、新宿駅に行ったことのある人ならぴんとくる、わかりやすい場所にある。
3人の友達に、同じことを聞かれた。
「あそこ、おいしいの?」
古びたガラスケースには、定食の写真がペタペタと貼られ、肝心のサンプルが見えない。軒の壁にも、60点余りの定食や惣菜の写真が並ぶメニュー表が。「ONLY CASH NO CREDIT」の素朴な手描きポスターに、「カキフライ始めました」のプレート、歴史が染み込んでいそうな藍染めののれん。
イカフライ定食930円。フライはすべて生パン粉を使う。身は柔らかくて厚い
今が1960年と言っても、写真付きメニュー表以外信じられそうな外観に、本当に旨いのかと確認したくなる気持ちはわからなくもない。
3回とも、私は胸を張って答えた。
「全部めちゃくちゃおいしいよ。上京30年、見てはいたのに一度も行かなかった自分を責めたくなるくらい最高の店だよ」
カレー粉はナイル商会!
福神漬けとおしんこは築地場外市場の名店、吉岡屋のもの。値が張るが味はいい。昔からのお付き合い
どれも旨いが、私のおすすめはカレーライスと肉豆腐定食だ。カレーでも安い方を推して長野屋には悪いが、ビギナーにはカツカレーではなく、まずはシンプルなカレーを味わってもらいたい。
たまたま最初に前者を食べ、カツのおいしさに気を取られてルーの実力に気づかなかった。再訪してカレーを食べ、度肝を抜かれた。玉ねぎの甘さ、ちょうどいい辛さ、スパイスの複雑な風味、そして懐かしさ。670円とは思えぬ深い味わいだった。これまで雑誌のカレー特集になぜ載らなかったのだろうか。……と思ったら、その謎は解けたので後述する。
なかなかにぎやかな入り口のドア
4代目のおかみさん、馬場美代子さんは語る。
「大鍋に山のような玉ねぎを炒めて甘味を出しています。それと、昔からカレー粉はナイル商会のもの。夫が店を継いで厨房に入った52年前から、ナイル商会のカレー粉を使っています」
緊急事態宣言の現在は水曜定休、11時30分〜20時だが、宣言前は22時30分ラストオーダー。先代は「365日休みなし、7時から23時までだった」(美代子さん)。
大正4年創業。食糧難の戦時下は東京都から民生食堂という外食券と交換で食事をする店に指定されていた。
外食券制度はなくなったが、長野屋は現存する稀少な元民生食堂のひとつである。安価で栄養価の高い食事を提供する民生食堂組合に加盟していた。高度経済成長期の新宿ビル群を築いた建設労働者、近所にあった簡易宿泊街の馬券売り場帰りの客、貨物や輸送の仕事に携わる肉体労働者がひっきりなしに訪れた。
長女の敦子さん。子どもの保育園のお迎えがあるので夕方退店
戦前の手描きの新宿区地図には、誤って「信濃屋食堂」と書かれている。美代子さんが「失礼しちゃうわ」と朗らかに笑った。先代が信州出身ではない。「もとは長野屋という酒屋だったからだと思うけど、名前の由来はよくわからないのよ」。
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