秦民(はだのたみ)と漢部(あやべ)、土師連(はじのむらじ)
雄略十五年、秦民は、秦造(はだのみやつこ)の管理下になく、臣連(おみむらじ)らに分散され、好きなように酷使されていました。天皇に仕える秦造サケノキミ(酒公)は、それをたいそう気に病んでいました。
天皇はサケノキミを寵愛し、秦民を集めてサケノキミに与えるよう命じました。サケノキミは、百八十あまりの村を率いることになりました。麻布、絹糸、絹織物を献上して、朝廷に積み上げました。それで姓を与えて、禹豆麻佐(うずまさ)※1といいます。
十六年七月、桑に適した国県(くにあがた)に、桑を植えさせました。また、秦民を移して、麻布や絹織物を献上させました。
十月、漢部(あやべ)を集めて、その伴造者(とものみやつこ)を決めて姓を与え、直(あたい)といいました。
十七年三月二日、土師連(はじのむらじ)らに命じて、朝夕の食事を盛る清らかな器を作る者を、献上するように言いました。
そこで、土師連の祖・アケ(吾笥)は、摂津国(つのくに)の来狭狭村(くささのむら)、山背国(やましろのくに)の内村(うちのむら)※2と俯見村(ふしみのむら)※3、伊勢国の藤形村(ふじかたのむら)※4と丹波(たにわ)、但馬(たじま)、因幡(いなば)の私有の部民※5を奉りました。
名付けて贄土師部(にえのはじべ)※6といいます。