おかしい。なんで、今日は終わってしまうのだろう。
そんなチンケなポエムが、ふと脳内で再生される。部屋の時計の針は天を指し、深夜が訪れたことを主張する。嗚呼(ああ)、読もう読もうと思っている本が今日も1ページも進まなかった。寝る前になって、わたしは本棚にズラズラと積まれた「積読(つんどく)」たちを眺めながらため息をもらす。知の結晶らしく、誇らしげに並んだ本たちはどれもAmazonで注文しその翌日に届いたもの。現代の魔法と涙ぐましいサービス努力であっという間に届いたはいいものの、今日もわたしはどの本にも手を付けていない。中には半年以上も放ったらかしの本もある。
重い瞼(まぶた)の裏を見ながら「配達員さんごめんなさい、もう明日の午前中配送なんて選びません」と、わたしは心の中で手を合わせ、静かに眠りにつくのだった。
わたしの時間はどこへ消えた?
一日が24時間だということは、物心がついた時から一応は理解していました。そしてどんなお金持ちでも買えないものが「時間」であり、大学生の時は「学費を換算すると1日は1万円だから、毎日を大切にしましょう」なんていう脅(おど)し文句にあったこともあります。
そして社会人になり、日中が就業時間という軸に固定されるようになったことで「時間」というものがよりハッキリとした感覚で肌について回るようになりました。毎朝同じ時間に目覚めて身支度をし、電車に乗り、会社に着いたら朝会に出席してチームメンバーの顔を見てから自席に座る。バタバタと仕事をこなし、コンビニ飯でランチを済ませ、ミーティングを繰り返しているうちに日が暮れて、少し残業してから家に帰る。ぐったりとした体を引きずりながらおもむろに冷蔵庫の中を漁って雑に腹を満たし、お風呂を済ませれはすっかり深夜近くになり、ようやく眠りに落ちたと思ったらまた次の朝がやってくる。
これが流れるように続く、わたしの日常でした。
しかし一方、どうにも奇妙なことがありました。家に帰ってきたはいいものの、わたしは、わたしが、寝るまでに「何を」していたのかを一向に思い出せないのです。家に着いたのが20時だとして、24時には寝たいから、わたしには寝るまでに4時間の猶予があるはずです。今日は家に持ち帰った仕事もなかったので帰ってからやることといえば出来合いのごはんを温めて食べることと、せいぜい20分のお風呂くらいしかなかったはず。
そのはずなのに、すでに時計の針はなぜか深夜を指し示している。帰宅して4時間以上がたっているというのに、わたしは読みたいと懇願し続けた本を開くこともなく、やりたいと思い続けている英語の勉強をするわけでもなく、ついにはごはんとお風呂しか「しなかった」というのはいささか奇妙というか、絶対におかしい。わたしはひとり、首を傾(かし)げました。
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