八
六月十八日、上洛命令を拒否した会津の上杉景勝を討伐すべく、徳川家康とそれに従う諸将は伏見城を出陣した。七月二日には江戸に到着し、七日には参陣諸将を江戸城に集めて大軍議を催した。
だが七月十七日、毛利輝元が大坂に入城することで、事態は急変する。
同日、奉行三人が連名で家康への弾劾状「内府ちがひの条々」を出すことで、家康は豊臣家の執政という立場から一転して謀反人とされた。
そして八月一日、伏見城に籠もる徳川方留守居部隊を、西軍が襲撃することで大乱が始まる。
九州でも、大乱は目の前に迫っていた。そうした中、清正は家康に味方することを決断する。
清正は、母伊都の葬儀で国元に戻ったまま上方に行くことはなかった。というのも家康から、九州における西軍勢力の掃討を依頼されたからだ。
家康も清正も豊臣家奉行衆との戦いが長びくと見ており、家康は清正と黒田如水に、九州の取りまとめと安芸の毛利家を背後から牽制する役割を課した。
一刻も早く大坂に駆けつけて秀頼を守りたい清正だったが、長丁場の戦いになると見て、ひとまず九州の西軍勢力の掃討を目指すことにした。
そうした世の中の動きとは裏腹に、藤九郎とその配下の者たちは、隈本城の築城に邁進していた。
六月には天守や櫓群の地業が始まり、同時並行的に石の切り出しも開始された。七月になると、又四郎の描いた正確な図面を元に、木材の伐り出しが始まる。八月には、木材を図面に従って切断する作業も開始された。いよいよ天守を中心とした本丸の築城が佳境に入ってきた。
それとは逆行するように、藤九郎の体調は次第に悪化していった。当初はひどい風病(風邪)だと思っていたが、暑い盛りの八月になっても微熱が続き、咳も治まらない。それでも藤九郎は自宅と茶臼山の現場を往復していた。時には駕籠を出してもらうこともあったが、たいていは又四郎に付き添われて徒歩で向かった。
病は次第に深刻になっていったが、藤九郎は周囲に気取られないよう、常と変わらぬ舟底袖の羽織にたっつけ袴といういでたちで茶臼山に通った。
九月上旬、清正が普請途中の現場を訪れる日がやってきた。
清正は飯田角兵衛、森本儀太夫、大木兼能といった宿老たちを引き連れ、茶臼山に登ってきた。総奉行を務める兼能は藤九郎の病状が芳しくないのを慮り、天守台の下で待つよう言いつけた。
やがて清正一行の姿が見えてきた。清正は兼能の説明を受けながら、何かを問い返している。
藤九郎ら普請方は敷かれた蓆の上に平伏した。
「藤九郎、久しぶりだな」
「ご無沙汰いたしておりました。それがしが不在の折は、石垣造りなどをご指導いただいたようで、ありがとうございました」
清正はしばしば茶臼山の現場に姿を現し、時には自ら石積みの指導をしたと聞いていた。
「昔取った杵柄だ。太閤殿下もよくそうしていた」
清正が「殿下」という言葉を発する時、そこには深い愛情がにじみ出ていた。
その時、咳の発作が襲ってきた。
「どうした」
「ご心配には──、ご心配には及びません」
身をよじり清正から遠ざかるようにして、藤九郎は咳をした。
慌てて懐から手巾を取り出し、口に当てる。いつもと違う感覚がしたので、ちらりと手巾を見ると、わずかに血が付いていた。
──まさか、労咳か。
ようやく咳の発作が治まったので、藤九郎は手巾を丸めて懐に突っ込んだ。
「無理をさせていたのだな」
「いえ、そんなことはありません。ご無礼仕りました」
「明日から、しばらく養生せい」
「は、はい」
清正はしゃがむと、藤九郎の肩に手を掛けた。
「そなたは本当によくやっている」
「も、もったいない」
「何を言う。そなたは加藤家の宝だ。これからも多くの城を造ってもらう」
「もちろんです」
「だからこそ──」
清正が立ち上がる。
「自愛せい」
清正が大きな背を見せて去っていった。
藤九郎は、この時ほど加藤家に仕官してよかったと思ったことはなかった。
八月一日の西軍による伏見城攻撃で始まった豊臣政権内の主導権争いは、会津征伐から一転して兵を西に向けた徳川家康によって、持久戦ではなく決戦が行われる公算が高くなってきた。
八月二十三日、福島正則や池田輝政ら東軍の先手部隊が、西軍の岐阜城を落城に追い込む。
一方、毛利家の部隊が東軍の伊勢安濃津城を攻略し、双方の動きが慌ただしくなる。
そして九月一日、徳川家康が江戸を出発して美濃方面に向かうことで、決戦の気運はいよいよ高まってきた。
こうした上方の動きが九州にもたらされるのは、ちょうど半月ほど後だった。そのため一日でも早く新たな情報を手に入れるため、九州の諸大名は躍起になっていた。
徳川家康の江戸進発の情報が届いたことで、清正は九州制圧を決意した。
奇しくも関ケ原で一大合戦が行われたのと同じ九月十五日、清正は隈本を出陣した。いったん北東の豊後国方面に向かったものの、西軍に付いた中川秀成が戦わずして降伏してきたため、兵を転じて肥後国南部の小西領へと進んだ。そして九月二十日には、小西行長の本拠の宇土城を包囲した。
関ケ原合戦の結果は、加藤勢にも小西勢にも、もたらされていなかった。そのため二十日から始まる宇土城攻防戦は、熾烈を極めるものとなった。
城主の小西行長不在の城なので、容易に落とせると思っていた清正だが、小西方も頑強な抵抗を示した。
九月末、ようやく関ケ原合戦の一報が入り、続いて行長が処刑されたことが伝わってきた。清正はこの情報を城方に知らせて降伏開城を迫ったが、小西方は受け容れない。偽情報だと思い込んでいるのだ。
しかし次第に宇土城内にも、関ケ原での敗戦や行長の死が確かなものだという情報が伝わり、十月十三日から和睦交渉が始まった。そして十五日、宇土城は降伏開城し、清正の戦いは終わった。
九
「お味方大勝利」の一報が届き、隈本城下は沸き立っていた。
連日、祭りのように人が外に繰り出し、夜になっても賑わいは続いた。これで加藤家の繁栄は約束されたも同じであり、「われらの殿は百万石の大名になる」などという噂まで、まことしやかに流れていた。
宇土城を降伏開城させた清正は、いったん隈本に戻った後、今度は北に馬を進め、西軍に付いた立花宗茂の柳川城を包囲した。立花勢は鍋島勢と戦闘中だったが、清正と黒田如水が宗茂を説得し、十月二十五日、宗茂は降伏開城を決意する。
その後、清正は薩摩方面に向かったものの戦闘はなく、十二月には再び隈本に戻った。
そうした清正躍進の陰で、藤九郎の衰弱は著しくなっていた。それでも連日、駕籠を使って茶臼山に登っていたが、いよいよ天守が完成するという九月末、駕籠に乗ることも辛くなってきた。
微熱と頭痛が引くことはなくなり、突然激しく咳き込むと、血痰を吐くことも多くなった。
──わしは、もうだめかもしれない。
おそらく風病をこじらせたことで体が弱り、眠っていた労咳が目を覚ましたのだろう。半島では多くの人々が労咳を患っていたので、どこかでうつされていたのかもしれない。
十二月のある朝、いつものように駕籠かきを連れて又四郎が迎えに来た。
藤九郎は又四郎とたつを枕頭に呼んだ。
「聞いてくれ」
二人の顔に緊張が走る。
「どうやら、わしはもう長くはないようだ」
「何を仰せですか」
その言葉にたつが嗚咽する。だが反論しないということは、しばしば往診してくれる清正の侍医から、それとなく診立てを聞かされているからだろう。
「たつ、多忙に任せて子をなすこともできずすまなかった。だが考えてみれば、わしの子はたくさんいる」
二人が顔を見合わせる。
「わしの子は城だ」
又四郎も涙を堪えながら言う。
「そうですよ。城取りの子は城です」
「わしはそれでよいが、そなたは祝言を挙げて子をなすんだぞ」
又四郎が啞然とする。
「そなたが、わが妹の里のことを憎からず思っているのは知っている」
たつと又四郎の顔に笑みが広がる。
「ご存じとは驚きました」
「わしの目は節穴ではない」
又四郎が頭をかく。
「恐れ入りました」
「姉さん女房だが、よろしく頼む」
「もちろんです。必ず幸せにしてみせます」
「だがわしは、そなたらの祝言まで生きていられそうにない」
たつが涙ながらに言う。
「あなた様、殿の侍医は、病は徐々に退散し掛かっていると仰せです」
「気休めは言わぬでよい。自分の体は自分が最もよく知っている」
藤九郎が口の端に笑みを浮かべる。
「ああ──」
たつが板敷に手をつくと、その肩を又四郎が支えた。
「姉上、気をしっかりとお持ち下さい」
藤九郎が苦しげに言う。
「又四郎、今日を最後の登城日とする」
又四郎が強くうなずく。
「分かりました」
「たつ、着替えを用意してくれ」
「はい」と言って、たつが座を立った。
「又四郎、ここまでよくやってくれた」
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