兄者のために、何とか秘伝書を持ち出したかったんだ」|第三章 九 十

織田信長の家臣・木村忠範は本能寺の変後の戦いで、自らが造った安土城を枕に壮絶な討ち死にを遂げた。遺された嫡男の藤九郎は家族を養うため、肥後半国の領主となった加藤清正のもとに仕官を願い出る。父が残した城取りの秘伝書と己の才知を駆使し、清正の無理な命令に応え続ける藤九郎──。戦乱の世に翻弄されながらも、次から次に持ちあがる難題に立ち向かう藤九郎は、日本一の城を築くことができるのか。

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 藤九郎は再び川を渡り、古町に戻った。古町のつじには、新町から逃げてきた人々が寄り集まっていた。それを古町の人々が助けている。

 藤九郎は相手構わず妻と係累の安否を聞いたが、誰もが首を左右に振るばかりだ。

 役人から、避難してきた人々が古町の寺の境内に収容されていると聞いた藤九郎は、不安を捻じ伏せて寺に向かった。

 境内には人々が溢れていた。

 ──やはりおらぬか。

 藤九郎が別の場所に行こうとした時だった。

「藤九郎さん!」

 はっとして振り向くと又四郎が立っていた。

「又四郎、無事だったか!」

「はい。姉上も里さんも無事です」

「そうか。よかった!」

 又四郎の先導で、藤九郎は人の間を縫いながら二人の許に走った。

「たつ、里、生きていたか!」

 二人が泣きながらかじりついてきた。

「よかった。本当によかった」

 藤九郎は天にも昇るような気持ちだった。

「みんなよくぞ逃げてきた。そうだ。藤十郎はどうした。皆の食い物でも探しに行ったのか」

 その言葉を聞いたたつの顔が曇る。

「ど、どうしたのだ」

 嫌な予感が胸底から湧き上がる。

「ま、まさか──」

「藤九郎さん、心して聞いて下さい」

 又四郎が唇を噛む。

「嫌だ。聞きたくない」

 藤九郎が両手で耳を覆う。

「藤十郎さんは──」

 又四郎がその場に片膝をついた。

「藤十郎は、すぐに戻ってくるんだろう!」

「いいえ」

 その言葉が鉛のようにのしかかる。

「では、どうしたというのだ」

「藤十郎さんは──、皆を橋まで送った後、引き返しました」

「引き返したとは、どういうことだ!」

 藤九郎が又四郎の胸倉をつかむ。

「私も驚き、その足にすがって理由を聞きました。すると──」

 又四郎の顔は、すでに涙でくしゃくしゃになっていた。

「藤十郎さんは秘伝書を取りに戻ると言うのです。私は必死に引き止めたのですが、『あれは兄者の命の次に大切なものだ。何とか運び出す』と言って私の手を振り払い、炎の中に──」

 こうした場合に備え、秘伝書は栗の木で作られた頑丈な笈に入れ、すぐに運び出せるようにしていた。だが藤九郎と藤十郎の家は少し離れていたため、藤十郎は皆を橋まで送ってから取りに戻ったのだ。

「ああ、なんと馬鹿なことを──」

「申し訳ありません」

 藤九郎が立ち上がる。

「皆はここにいろ。もうすぐ殿が手を差し伸べて下さる」

「藤九郎さんは、どうなさるのですか」

「新町に行ってみる」

「まだ火は残っています。死にに戻るようなものです」

「分かっている。だが行かねばならない」

「しかし──」

 たつが腕を取る。

「行かないで!」

「まだ火が盛んだったら戻ってくる。わしを信じてくれ」

 たつの手を振りほどき、藤九郎は走り出した。

 古町に入ると、早くも足軽たちが屯集していた。だが延焼を食い止めるための打ち壊しを行う足軽たちは、新町に入ろうとしていない。

 ──まだ新町に入るのは危険なのだ。

 すでに橋の周囲に人はまばらで、橋を渡って新町側に出ることができた。

 新町の大半は焼け落ちていたが、いまだ燃え続けている家屋もある。その熱はすさまじく、皮膚が水膨れしてくるのが分かるほどだ。路傍には、逃げ遅れて焼け死んだ者たちの炭化した遺骸いがいが横たわっている。そうした遺骸に手を合わせるいとまもなく、藤九郎は道を急いだ。

 ようやく、かつてわが家のあった場所が見えてきたが、案に相違せず焼け落ちている。

「藤十郎!」

 焼け跡には熱気が立ち込め、とても近づけるものではない。この有様を見れば、新町で生き残っている者は皆無なのが分かる。

「ああ、なんてことをしたんだ」

 その場に腰を下ろし、藤九郎は誰はばからず泣いた。

「そなたがいなければ、わしは何もできない。もうわしは──、わしはむくろと変わらぬ」

 声に出してみたものの、近くに人気ひとけはなく、ただパチパチと木の焼ける音だけが聞こえてくる。

 藤九郎は熱さを気にせず、焼け落ちた家に踏み込んでみた。藤十郎の遺骸を捜そうと思ったのだ。

 ほどなくして倒れた柱の下に、つぶれた栗木の笈が見えた。

 ──ああ、まさか。

 その下に黒焦げの遺骸があった。遺骸はうつ伏せになっており、その顔は判別できないが、かろうじて焼け残った着物の切れ端に見覚えがある。

 ──間違いない。やはり藤十郎は死んだのだ。

 絶望が波のように押し寄せてきた。

 ──藤十郎も秘伝書も焼けてしまった。

 その事実を前にして、藤九郎は茫然とするしかなかった。

 ──もはや天守は造れない。わしも死のう。

 藤九郎は、清正に死んで詫びる以外にないと思った。

 家屋を焼く炎が風に乗り、着物に引火しようとしている。それまでは火の粉を払ってきたが、そんな気力もせていた。

 藤十郎の笑い声が、どこからか聞こえてくる気がする。

「藤十郎、つらかったな」

「兄者、何とか秘伝書だけは運び出したかったが、はりが崩れてきて下敷きになってしまった」

「秘伝書など、どうでもよかったのに──」

「兄者のために、何とか秘伝書を持ち出したかったんだ。それができず無念の極みだ」

「そんなことより、なぜ無理をしたんだ」

 それについて藤十郎は何も答えない。

「なぜだ。なぜなんだ!」

 後は言葉にならない。

 ──わしは、もう何の値打ちもない男だ。生きていても仕方がない。たつ、許してくれ。

 ふらふらと立ち上がった藤九郎は、いまだ炎が激しく舞う一軒に向かって歩を進めた。

 その時、背後から声が掛かった。

「藤九郎さん、どこに行くんですか」

 振り向くと又四郎が立っていた。その顔は煤で黒々としている。又四郎は藤九郎のことが心配になり、炎の中を追い掛けてきたのだ。

「又四郎、もはやすべては終わったのだ」

 藤九郎が藤十郎の遺骸を指し示す。又四郎も藤十郎の遺骸を確かめ、「ああ、やはり」と言って肩を落とした。

「これで何もかもしまいだ」

 その場にしゃがみ、藤十郎の遺骸を見つめていた又四郎が顔を上げる。

「何が終わったのです」

「わしの城取りとしての生涯だ」

「どうしてですか!」

「藤十郎と秘伝書がわしを支えてきた。その双方を失った今、わしは城など造れない」

 藤九郎は全身の力が抜けていくように感じた。

「何を仰せですか。これくらいのことで勝負を投げていいんですか!」

「これは勝負ではない。殿から託された仕事が全うできなければ、身を引くしかない。わしがいなくなれば、殿も心置きなく上方から大坂城の縄張りを描いた城取りを呼べる」

「そんな者に誰が付いていくというんですか。この地に根を下ろし、この地の者のために必死に尽くしてきた方が差配してこそ、皆は懸命に働くのです」

「それが、わしだと言うのか」

「そうです。ほかに誰がいるのですか」

 ──いつの間にか、わしはそこまでになっていたのか。

 藤九郎は、与えられた仕事を懸命にこなしてきただけだった。だが積み上げられた実績は、ほかの誰も追随できないものになっていた。

「そなたは、無力となったわしでも新城が築けると言うのか」

「もちろんです。きっと成し遂げられます」

「そなたは殿の要求の厳しさを知らぬから、そう言えるのだ」

「そうかもしれません。しかしいかに厳しい要求でも、それを叶えるために全力で取り組むのが、城取りではありませんか」

 又四郎の言う通りだった。

 ──もはや逃れられぬのか。

 藤九郎は、一人で背負わねばならなくなった重圧に押しつぶされそうだった。

「分かった。命を捨てることだけはやめておく」

「それで十分です。さあ、行きましょう」

「だが、殿には辞意を伝える」

「それはお任せします」

 藤九郎が又四郎に問う。

「わしがすべてを失っても、そなたは付いてきてくれるのか」

「当たり前です。私は──」

 又四郎の瞳から大粒の涙がこぼれる。

「城取りの藤九郎さんではなく、人としての藤九郎さんが好きなのです。それは、わが姉も同じでしょう」

「食うや食わずでも構わぬのか」

「食い物くらい、どこからでも調達してきます。私は木葉の又四郎ですぞ」

「そうだったな。それを忘れていた」

 二人の顔に笑みが浮かぶ。

「行きましょう」

「ああ、行こう。その前にちょっと待ってくれ」

 藤九郎は焼け落ちた家に向かい、頭を下げた。

「木村藤十郎殿、これまでありがとうございました」

 横に立つ又四郎もそれに倣う。

「藤十郎──」

 藤九郎の口調が、親愛の情が籠もったものに変わる。

「今日のところは、これで引き揚げさせてもらう。だが後で丁重に葬る。しばし我慢してくれ」

 未練を振り捨てるように藤九郎が走り出すと、又四郎もそれに続いた。

 二人は涙を拭おうともせず、黒煙がくすぶる新町をひたすら走った。

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もっこすの城 熊本築城始末

伊東潤

藤九郎、わしと一緒に日本一の城を築いてみないか――。 織田信長の家臣・木村忠範は本能寺の変後の戦いで、自らが造った安土城を枕に壮絶な討ち死にを遂げた。遺された嫡男の藤九郎は家族を養うため、肥後半国領主加藤清正のもとに仕官を願...もっと読む

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NigerTigris 職場じゃなければ、泣いてた。 8ヶ月前 replyretweetfavorite