わしの代わりが務まるのは、そなたしかおらぬからな」|第三章 三 四 五

織田信長の家臣・木村忠範は本能寺の変後の戦いで、自らが造った安土城を枕に壮絶な討ち死にを遂げた。遺された嫡男の藤九郎は家族を養うため、肥後半国の領主となった加藤清正のもとに仕官を願い出る。父が残した城取りの秘伝書と己の才知を駆使し、清正の無理な命令に応え続ける藤九郎──。戦乱の世に翻弄されながらも、次から次に持ちあがる難題に立ち向かう藤九郎は、日本一の城を築くことができるのか。

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 秀吉の「唐入り」、すなわち文禄・慶長の役も終わり、誰もが国内に静謐せいひつが訪れると思っていた。しかし朝鮮陣での豊臣家中に入った亀裂きれつは、海を越えて国内に持ち越された。

 十二月二日、博多に着いた清正は、本国の肥後にも寄らず上洛じようらくの途に就いた。

 この時、一足先に帰国していた石田三成が、博多に着いたばかりの諸将に「明年入京すれば茶会を開いて慰労しましょう」と告げたところ、清正は立腹し、「わしなど他国で七年も苦労したが、一文いちもんの金ももうからず、茶や酒さえない中で過ごしてきた。それゆえ、ただ稗粥ひえがゆをもって答礼するのみ」と答え、険悪な雰囲気が漂った。

 これが大きな波紋となっていくが、それでも清正は、隈本の城下町の建設を忘れてはいなかった。

 すでに清正は、武家屋敷となる新町を囲むように土居と堀による惣構そうがまえを造るよう三宅角左衛門に命じていたが、「商人町の建設を急げ」という新たな命を出した。これにより藤九郎たちは、新町に隣接する古町ふるまち一帯に本格的な商人町を造ることになった。

 古町にすでに集住していた商人たちを、いったん末町に移住させて区画整理を行った藤九郎は、新たな商人町の建設に着手した。

 ところが慶長四年(一五九九)の正月が明けると、風雲は急を告げてきた。


「なんと、殿に呼ばれて大坂に行くだと!」

 藤十郎が驚く。

「ああ、すぐに来いとの仰せだ」

「でも、何をしに行く」

「殿は大坂屋敷と伏見屋敷を、より堅固なものにしたいらしい。それ以上、詳しいことは聞かされておらん」

「そうか。いずれにせよ大坂に行くということは、大坂の城が見られるではないか」

「そうなのだ」

 大坂城第一期工事は天正十一年(一五八三)九月頃から開始され、翌年八月、秀吉が本丸御殿に入ることで終了する。

 第一期工事は、内堀に囲まれた本丸地区の普請と作事が主であり、残存していた石山いしやま本願寺ほんがんじの石垣や堀を再利用したため、規模の割には短期間で終わっている。この時、外観五層・内部八階の望楼型天守も上げられた。

 天正十四年(一五八六)二月、秀吉は第二期工事を開始した。この工事は本丸地区を取り囲む二之丸の構築が目的で、二之丸堀は堀幅八十メートル、石垣の高さは三十メートルという途方もないものとなった。

 天正十六年(一五八八)三月頃までに第二期工事を終わらせた秀吉は、天正十八年(一五九〇)の小田原城で見た惣構の有用性に目を付け、第二期工事の終了から六年も経った文禄三年(一五九四)、第三期工事に着工する。

 第三期工事は全長八キロメートルにも及ぶ惣構を構築し、三之丸と呼ばれる城下町地区を囲繞いにようすることを目的としていた。これにより大坂城は、八キロメートルに及ぶ惣構堀に囲まれた総面積四百万平方メートルという前代未聞の規模の城となった。

 これまで大坂城を見たいと思ってきた藤九郎だが、一度もその機会は訪れなかった。だが、ようやくその機会がめぐってきた。上方の情勢が緊迫したものになりつつあるので、どうなるかは分からないが、遠くから眺めるだけでも構わないと思っていた。

 藤十郎が鼻息荒く問う。

「それで出発はいつだ」

「次の船便なので、二日後だ」

「それまでにやっておかねばならないことが、山ほどあるな」

「それはそうなのだが──」

 藤九郎は思い切って言った。

「此度は、わしだけで行く」

「えっ、どういうことだ」

「そなたには、わしの代わりを務めてもらう」

「つまり、隈本に残れと言うのか」

「そうだ。わしの代わりが務まるのは、そなたしかおらぬからな」

 藤十郎が浮かし掛けた腰を下ろす。

「そいつはうれしい言葉だが、側役(補佐役)がおらぬと、向こうで苦労するのではないか」

「うむ。だから此度は又四郎を側役として連れていく」

「又四郎を──。奴に側役が務まるのか」

「何事も経験だ。そなたに大坂城を見せられないのは残念だが、こちらにも仕事が山積している。それをすべてそなたに託したい」

 藤十郎が満面に笑みを浮かべる。

「分かった。兄者の目はわしの目だ。兄者が大坂城を見れば、わしが見たも同じだ」

「そう言ってくれるか」

 藤十郎はすぐに気持ちを切り替えてくれた。それが藤九郎にはうれしかった。

「こちらのことは任せてくれ。兄者のようにうまくやれるかどうかは分からんが、できる限りのことはやる」

「分かっている。そなたを信頼している。好きなようにやれ」

 藤十郎が涙ぐむ。

「われら兄弟、初めて別々の仕事をするんだな」

「ああ、そうだ。そなたが一人前になったからだ」

「よし、やってやる!」

 藤十郎が胸を叩いた。

「その意気だ。早速だが──」

 藤九郎が図面を開く。

「城の中核部を造る前に外辺部の守りだ。殿は『外から造れ』と仰せだからな。そこで白川の南の加勢川かせがわに治水を兼ねて大きな江丸こうまる(堤防)を造ろうと思う」

「つまり土塁兼江丸だな」

「そうだ。さらに南の緑川は御船川みふねがわと合流させて水量を豊富にする。さすれば外堀の役割を果たしてくれるはずだ」

「いわゆる島津対策だな」

「そういうことになる」

 二人の談議は深夜にまで及んだ。藤九郎は自らの考えを懇切丁寧に藤十郎に伝えた。

 翌日、大坂に連れていくことを又四郎に告げると、又四郎は口をあんぐりと開けた後、飛び上がらんばかりに喜んだ。

 数日後、藤九郎は又四郎を従え、百貫石から船に乗り、一路大坂を目指した。

 ──これが大坂城か。

 慶長四年正月下旬、大坂に初めてやってきた藤九郎は、その城の巨大さに足がすくんだ。

 それは又四郎も同じらしく、天守の方を眺めて息をのんでいる。

「藤九郎さん、これが城なのですか」

「ああ、城だ。間違いなく城だ」

「大坂の町全体が城なんですね」

 藤九郎は、その燦然さんぜんと輝く天守を茫然ぼうぜんと眺めるしかなかった。

 やがて一行はそと曲輪ぐるわに着いた。

 大坂城内とくに二之丸内に入るのは容易ではない。だが藤九郎たちが行くのは、大坂城外曲輪の内町うちまちにある加藤屋敷なので、外曲輪に入る時、惣構にある内町門で一度だけ過書かしよ(通行手形)を提示するだけで済んだ。

着到ちやくとうの報告をすると早速、清正が会いたいという。藤九郎は旅装を着替えただけで荷も解かず、清正が待つという対面の間に駆けつけた。

「木村藤九郎、参上仕りました」

「よくぞ参った」

 清正の顔はいつになく憔悴しようすいしていた。

「殿、お顔に心労が表れているようですが、いかがなされましたか」

「やはりそうか。久しぶりに会う者は皆そう言う。よほど疲れているように見えるのだな」

 清正が苦笑いする。

「それがしにまつりごとは分かりませんが、いったん国元に引き揚げ、しばし養生なされたらいかがでしょうか」

「心配は要らん。それより、そなたを呼びよせた理由を教えてやる」

 清正は帰国後の情勢変化を詳しく語った。

 慶長三年十二月、清正をはじめとする朝鮮在陣諸将の引き揚げが完了した。博多に戻った諸将に対し、石田三成は「いったん帰国し、年が明けたら伏見に来てほしい」と告げたが、得るものが全くなかった外征の結果と石田三成ら奉行衆への不信感から、双方の雰囲気は最悪だった。

 翌慶長四年正月、大老と奉行は秀吉の置目おきめ(遺命)を奉じて秀頼ひでよりを大坂城に移し、後見の前田利家まえだとしいえもこれに従った。

 一方、徳川家康は伏見にとどまって豊臣家の執政として政務を統括し、奉行衆は大坂と伏見を往復して双方の調整に努めるという新体制、いわゆる「秀吉遺言覚書体制」が発足した。

 だが半島で芽生えた豊臣家中の軋轢あつれきは、新体制下でも続いていた。

「弥九郎(行長)や治部少じぶしようが、わしを陥れようとしたのは事実だ。しかしわしは弥九郎を救いに順天城(順天倭城わじよう)に向かった。幸いにして弥九郎の脱出が成ったと聞き、途中から引き返したが、帰国すると、あたかもわしが弥九郎を見捨ててきたかのように吹聴ふいちようするやからがいる。しかも弥九郎は帰途に寄った釜山の本営が焼き払われていたことに怒り、わしの嫌がらせだと騒ぎ出した。引き揚げに際して城を焼くのは定法だ。わしは弥九郎が釜山に寄るとは聞いていなかったからな」

 清正の話を冷静に聞いていると、双方には抜き難い憎悪の念があり、互いの行動を悪意から出ているものと誤解しているのに気づいた。

僭越せんえつではございますが、なにぶん戦の時は誤解が生じやすいもの。帰国して時を経れば、小西殿とも奉行衆とも力を合わせていけるのではないでしょうか」

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もっこすの城 熊本築城始末

伊東潤

藤九郎、わしと一緒に日本一の城を築いてみないか――。 織田信長の家臣・木村忠範は本能寺の変後の戦いで、自らが造った安土城を枕に壮絶な討ち死にを遂げた。遺された嫡男の藤九郎は家族を養うため、肥後半国領主加藤清正のもとに仕官を願...もっと読む

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