もはや殿下には、何を言っても無駄だ」 | 第二章 十五

織田信長の家臣・木村忠範は本能寺の変後の戦いで、自らが造った安土城を枕に壮絶な討ち死にを遂げた。遺された嫡男の藤九郎は家族を養うため、肥後半国の領主となった加藤清正のもとに仕官を願い出る。父が残した城取りの秘伝書と己の才知を駆使し、清正の無理な命令に応え続ける藤九郎──。戦乱の世に翻弄されながらも、次から次に持ちあがる難題に立ち向かう藤九郎は、日本一の城を築くことができるのか。

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十五

 慶尚南道西生里に造られた清正の拠点城は西生浦ソセンポ城と名付けられ、不眠不休の普請が続いていた。

 西生浦城の建地割から石垣面積を割り出すと、面石に使う安山岩あんざんがんだけでも五万個は必要となる。そのほかにも膨大な量の裏込石が要る。

 まず大量の軽籠もつこを作らせ、河原に転がるゴロタ石を軽籠に載せ、夫丸たちを使って山頂に運ばせた。このゴロタ石が裏込石となる。

 続いて、石切り場でがし取られた面石用の石材を運ぶのだが、これが一筋縄ではいかない。

 石切り場から舟入まで修羅の道を築き、切り出した石を順次、修羅で石舟まで運ぶ。続いて石舟が川を下り、西生浦城の舟入で石を下ろすと、再び修羅に石を載せ、本曲輪に予定している山頂付近まで押し上げるという重労働になる。

 面石の大きさは一つあたり六十貫から八十貫(約二百二十五から約三百キログラム)に達し、大の男が五人いても容易には運べない。

 そのため傾斜のきつい箇所に軌道を敷き、地車じぐるまと呼ばれる台車に石を載せて山頂まで引き上げることになる。この作業は極めて過酷で、屈強な夫丸でも日に何個も運べない。そのため藤九郎は、上役の三宅角左衛門に頼み込み、足軽小者も動員してもらった。

 当初は明らかに不貞腐ふてくされていた足軽たちだったが、藤九郎自ら夫丸と共に修羅を押し上げる姿を見て、積極的に協力するようになった。

 それでも一人が一日に運べる石は体力的に二つか三つなので、藤九郎は巻き上げ(滑車)を使って地車を引くという方法を考案した。これにより夫丸たちの負担は大幅に軽減された。

 ──どのような難事や厄介事だろうと、考えに考え抜けば道は開ける。

 それは、父の手控えに書かれていた言葉だった。

 石切り場からは次々と石材が運ばれてくるが、その後の段取り(工程)を考えておかないと、舟入に石材が積み上がってしまう。そうなると人の行き来もままならなくなり、作業全般が滞る。

 こうした時こそ、工程全体を管理する普請頭の手腕が問われる。藤九郎は作業工程を頻繁に調整して乗り切った。

 石材の搬入作業も一段落してきたので、藤九郎は以後の作業を三つの集団に分かつことにした。作事を含めた工期は約百二十日と見積もっているので、三カ所の普請を同時並行的に進めねばならないからだ。

 三つとは、本曲輪と二曲輪を担当する集団、低地の舟入周辺を担当する集団、そして城の周囲を取り巻く石垣の普請を担当する集団だ。

 一方、城内の広い場所では、建地割や指図書に合わせて作事に使う木材の採寸と切断、また「ほぞ穴」を開けるといった木材の加工も始まった。これを担当するのは、番匠ばんしようと呼ばれる作事担当の大工たちだ。

 藤九郎の手日記(工程表)は厳密で、行き当たりばったりで何かを行うことはない。

 ──何事も算段だ。算段さえできていれば、不測の事態が起こっても対処できる。

 秘伝書にも書かれていたが、普請作事の基本は算段、すなわち計画にあり、それに従って進めることが何よりも大切だ。

 そうした中で最も工夫が必要だったのは、登り石垣だった。国内でもまれな登り石垣は、山頂から城を囲むように二条の竪堀と石垣を築いていき、その内側を城域とするものだ。だが、ただ竪堀と石垣を築くだけでは防御力に乏しいため、何カ所かに小さな出構状の防御施設を築き、横矢が掛かるようにした。

「横矢が掛かる」とは、石垣を登攀とうはんしようとする寄手の兵を側面から攻撃すべく、石垣を屈曲させることだ。

 またその際、石垣を堀底から立ち上げるのではなく、いったん犬走いぬばしりのような踊り場を造り、寄手が身を隠す場所をなくすようにした。


 こうした試行錯誤を繰り返した末の八月、いよいよ西生浦城は普請から作事段階に入った。

 まずは天守である。

 天守は、この地の支配者が誰かを明確にし、その支配力の強さを知らしめる建築物だ。豪壮華麗な天守が遠目からでも見えることで、被支配民は抵抗することがいかに無意味かを覚る。とくに両班ヤンパン階級による支配に慣れているこの地では、それが有効だと思われた。だが朝鮮国は森が少なく、良材が思うように手に入らない。そのため巨大な天守は築けないと分かった。

 藤九郎は熟慮の末、外観三重で内部四階建ての望楼型天守を築くことにした。

 望楼型天守とは、入母屋いりもや造りの建物の上に望楼を載せた形の天守のことだ。

 また西生浦城の場合、搦手からめてにあたる天守背後の尾根筋を伝い、敵が攻め寄せてくることも考えられるので、搦手の防備も怠るわけにはいかない。

 藤九郎は本曲輪の端部に多聞櫓を築き、西北の隅部に二階櫓を設けると、本曲輪から一段低い場所に曲輪を一つ築き、先端部に馬出を設けた。さらに巨大な堀切で尾根を遮断した。


 西生浦城の作事も峠を越した九月中旬、釜山にいる清正が、進捗しんちよく状況を見に来るという知らせが入った。それを聞いた藤九郎は急いで城内を清掃させ、清正の見学経路を設定すると、普請作事方と共に舟入で清正を待った。

 やがて「南無妙法蓮華経」という題目が大書された旗幟きしを翻らせ、清正がやってきた。

 船を下りた清正は眼光鋭く城を見回すと、「大儀」と言って、そこにいる者たちをねぎらった。

「藤九郎、息災であったか」

「はい。おかげさまで。それよりも築城に際しての木材の手配、真にありがとうございました」

 清正が木材の手配に尽力してくれたことで、どれだけ助かったか分からない。

 慶長期になってから造られた朝鮮半島南端部の八つの新城は、ほぼ同時に普請作事が進められた。そのため事前に木材を押さえ、場合によっては高値でも買い取り、過不足なく普請現場に送る必要があった。

 清正はこうした手配仕事に長けていた。だが半島で良材を入手することは難しく、ようやく回されてきた木材も無駄にすることができないので、採寸や鋸挽のこぎりびきを厳密に行わねばならなかった。

 城内の案内は主に三宅角左衛門が行い、細かい質問には藤九郎が答えた。飯田角兵衛、森本儀太夫、大木兼能といった重臣連中も一緒なので、様々な質問が飛び交う。

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もっこすの城 熊本築城始末

伊東潤

藤九郎、わしと一緒に日本一の城を築いてみないか――。 織田信長の家臣・木村忠範は本能寺の変後の戦いで、自らが造った安土城を枕に壮絶な討ち死にを遂げた。遺された嫡男の藤九郎は家族を養うため、肥後半国領主加藤清正のもとに仕官を願...もっと読む

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