十一
前年十月の秀吉の「御成り」を無事に終わらせた名古屋城普請・作事方は天正二十年(一五九二)三月、百を超える諸大名の陣屋も完成させた。これにより東松浦半島に、「野も山も空きたるところなし」と言われるほどの一大都邑が出現した。
そして四月十二日、小西行長らに率いられた第一軍が七百艘の兵船に乗り込み、釜山浦に向かった。風向きがよかったこともあり、第一軍はその日のうちに釜山浦に到達する。
これにより日本軍の快進撃が始まる。
翌十三日には釜山鎮城を、十四日には釜山鎮の北方一里半にある東莱城を落とした第一軍は、漢城目指して進撃を開始した。
十七日、加藤清正勢一万が釜山浦に上陸する。その後方からは、鍋島直茂勢一万二千の船団が続く。彼ら二人に相良頼房勢八百を加えた二万二千八百の軍勢が第二軍となる。
第二軍は第一軍を追うように北上を開始した。
そして五月三日早朝、前夜に入城を果たした第一軍に続き、加藤勢が中心となった第二軍が漢江を渡河して漢城に入った。
日本軍は釜山上陸から漢城入城まで、難路も多い百十里余(約四百五十キロ)の行程を、わずか二十日という早さで踏破したことになる。
六月、朝鮮政府軍が最後の拠点とした平壌に向かう途次、日本軍首脳部は軍議を開き、秀吉の「八道国割」の方針に従って袂を分かつことになった。すなわち第一軍と第三軍は、それぞれ平安道と黄海道を押さえるべく平壌に、第二軍は進路を東北に取って咸鏡道に向かった。
難なく平壌に至った行長らは、平壌城に無血入城を果たした。
一方、安城から北東に進んだ清正の第二軍は、険阻な馬息嶺山脈の中でも屈指の峠・老里峴を越え、咸鏡道の安辺に至る。
清正は自らの本陣を咸鏡道の最南端・安辺に定め、そこから二十里(約八十キロメートル)ほど北の咸興を鍋島直茂の本陣とした。
七月初旬、鍋島直茂勢と共に安辺を後にした清正は、進路を北に取った。
途中、敵との小競り合いがあったものの、これを降した清正は、さらに北上を続けて豆満江直前の宿駅・会寧に至った。
ここで二人の朝鮮王子を捕虜とした清正は、意気揚々と会寧を後にし、半里(約二キロ)ほど西方を流れる豆満江を渡河し、明領オランカイへ侵入した。遂に日本軍は明領に達したのだ。それでも八月初旬、半島の厳しい冬が到来する前に、朝鮮領まで戻ることにした。
ここで清正は重大な決定を下す。地味に乏しく、冬期には補給困難となる咸鏡北道の北半分を放棄し、吉州から南に在番役を置くことにしたのだ。
実は、九月以降、義兵の蜂起が相次ぎ、海では李舜臣率いる朝鮮水軍の活動が活発化し、さらに明軍の参戦もあり、日本軍の侵攻作戦は停滞し始めていた。
事態はさらに悪化の一途をたどる。
翌文禄二年(一五九三)正月、行長の守る平壌が明軍の攻撃によって陥落し、日本軍は漢城まで撤退する。漢城目指して攻めてきた明軍を、碧蹄里で撃破したものの、日本軍には厭戦気分が漂い始めていた。
明軍は日本軍に対し、半島からの撤退、二王子の返還、秀吉の謝罪という三条件をのめば、秀吉を日本国王に封じ、勘合貿易を復活させると約束した。
これに対し、行長と奉行衆は咸鏡道から清正らを撤兵させ、和議に応じる構えを見せつつ、漢城から撤退することの代償として、朝鮮南部四道(江原道・慶尚道・全羅道・忠清道)の割譲を迫るつもりでいた。
二月二十七日、石田三成ら奉行衆は、秀吉に現地の窮状を訴える使者を送り、暗に漢城からの撤退許可を願い出た。
漢城からの撤退を了解した秀吉は、ひとまず慶尚南道の沿岸に築かせていた十八城に、七万八千余の日本軍を駐屯させることとし、朝鮮南部四道だけでも割譲させるよう命じた。
秀吉から漢城撤退の了解を取り付けた日本軍は四月十八日、競うように南下を開始した。
かくして日本軍の漢城占拠は、わずか一年で終わった。
同月、朝鮮在陣諸将に秀吉から命令書が届く。あくまで秀吉は「久留の計(永遠に在陣すること)」にこだわり、慶尚南道一帯に二十余の番城構築を命じてきた。
これらの城は、後に「文禄十八城」「慶長八城」と呼ばれることになる。
番城群の東端に位置する城の築城を命じられた清正は、国元に五十カ条にわたる命令を発した。これは兵糧・武器・軍需品のみならず生活必需品の輸送まで含めた詳細なもので、とくに陣夫や職人の補充を強く求めていた。
いよいよ加藤家中は、総動員体制で築城に臨むことになる。
その後、名護屋城の拡張普請や諸大名の陣屋造りに従事していた藤九郎だったが、突然、清正の使者がやってくると、半島に渡るよう命じられた。
隈本城下に戻ることさえ許されず、妻へは渡海を書簡で伝えるしかなかった。
しかも北川作兵衛の病が思わしくないので、藤九郎が作兵衛の組も率いていくことになった。
又四郎も共に渡海することを望んだが、藤九郎はそれだけは許さず、名護屋に残ることを命じた。
四月二十五日、藤九郎は弟の藤十郎と、普請作事に携わる主立つ者らを率いて渡海した。
名護屋港から乗り込んだのは、かつて大坂から九州に渡った時に乗ったのと同じような大きさの安宅船だった。
その日のうちに壱岐の勝本浦に寄港して物資を積み下ろした船団は、すぐに出港した。この島には、松浦鎮信が築いた本格的な石垣城の勝本城があるが、それを見学する暇もなかった。
すでに日が暮れてきたこともあり、この日は対馬の厳原港に停泊することになった。対馬には厳原港を見下ろせる場所に清水山城があるが、ここでも上陸は許されず、翌朝になってから船団は一路釜山を目指した。
船団が対馬の北を回った時、対馬最北端の大浦港から何艘もの中型船が姿を現した。大浦の撃方山城を根城にする警固隊だ。
朝鮮水軍は亀甲船と呼ばれる異形の船で日本の船団に攻撃を掛け、大きな戦果を挙げていた。そのため日本側も対馬最北端に中型船で編制された警固隊を置き、安宅船の船団を護衛させていた。
幸いにしてこの日は亀甲船の襲撃はなく、船団は無事に釜山港に着いた。名護屋から釜山まで三十里(百十キロメートル余)の船旅だった。
釜山に上陸した一行を待っていたのは、三宅角左衛門の下役だ。下役は慶尚道の道都・慶州で清正が待っていると告げ、明後日の朝に慶州に向かう船を出すという。
そのため翌日、藤九郎たちは釜山の町を見て回ることができた。
「兄者、こいつはひどいな」
藤十郎が顔をしかめる。
「これが戦というものだ」
釜山鎮城は凄惨な殺戮の爪跡を残していた。城壁は何カ所かにわたって崩れ、中の建物はことごとく焼け落ちている。すでに遺骸は片付けられているが、民は食べるものもないらしく、日本人を見掛けると寄り集まってきては物乞いをする。
藤九郎たちとて、配れるほどの食べ物は持っていない。致し方なく、すがってくる民をかき分けるようにして城内を見て回った。
釜山鎮城は総延長五百メートル余、高さ四メートルの城壁をめぐらせた朝鮮式邑城だ。
邑城とは主に平地にあり、城下を取り込んだ羅城(一重の城壁)をめぐらせる中国式の城のことだ。山稜を取り込んだ形の東莱、漢城、開城、平壌などの例もあるが、これらの城も山稜を取り込んでいるだけで、自然地形のままで曲輪などは設けていないため、その防御力は脆弱だ。
ここ釜山鎮城も、羅城沿いに甕城・雉城・角楼などの防御施設を備えただけの典型的な邑城のため、虎口を制圧して中に侵入しさえすれば、その防御力はなきに等しい。
ちなみに甕城とは、虎口部分を守るために造られた半円形の櫓門のようなもの、雉城とは城壁の途中に造られた出構のようなもの、角楼とは城壁の隅部分に造られた高櫓のことだ。
藤十郎が呆れたように言う。
「高麗人は、この程度の城しか築けぬのか」
「いや、この城は政庁だ。初めから守ることなど考えてはいない」
「だからといって、これでは鎧袖一触だな」
藤十郎が肩をすくめる。
「それぞれの国には、それぞれのやり方がある」
藤九郎と藤十郎は甕城・雉城・角楼といった防御施設も見て回った。これらの施設は、日本の櫓と同じ役割を果たすものだが、石で造られているので焼け残っていた。
「兄者、邑城では、城壁に近づく敵を、こうした櫓上から矢を射るだけなんだな」
「そのようだな。虎口も平入なので容易に攻め取れる」
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