こんにちは。
この日記が公開されるのは、年明けでしょうか。
今わたしは年末の土曜、京都のカフェでこれを書いています。荒神口のME ME ME(ミーミーミー)というカフェですが、サクちゃんも以前京都に来たときにここで朝ごはん食べていましたよね?
わたしはここのコーヒーが大好きです。柔らかくて、優しい味がします。
そして土曜の午前も好き。この時間に仕事をするのも好きです。
わたしは普段文章を書く仕事をしていますが、「書く」ことは仕事であり、趣味であり、習慣であり……平日休日関係なく行うものです。だからこの、平日と休日の間のような時間に仕事をするのが、特に好きなのかもしれません。
わたしの人生を人体にたとえると、書くという行為は、毛細血管を血液が流れているようなものです。手を動かすことであらゆる血管に言葉が流れ、ようやく自分の体が機能する。
だからサクちゃんが「書くというのは、泣くのと似ているな」と書いているのを読んで、ああ、わたしにとっての文章は涙であり血液なのだろうな、と思ったのです。
書くって、なんだか液体が流れる感じと似ていますよね。
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「まさに、わたしは泣くのが苦手なのです」
サクちゃんは前回の日記でそう書いていました。18歳から10年も泣いていなかったというエピソードには、「えっ」と声をあげてしまうくらいびっくりしましたよ。これまでのやりとりの中で、サクちゃんが感情や欲に蓋をしてきたことを読んできましたが、泣くのもやっぱり苦手だったのですね。
対するわたしはと言うと、めちゃくちゃ泣きます。毎日泣いているんじゃないかな? きのうは漫画を読んで泣いたし、昔あった嫌なことを思い出して泣きました。ちょうどカウンセリングの日だったのですが、カウンセラーさんと話している途中も泣きましたよ。昔から泣き虫で、とにかくいっぱい泣くのです。本当にわたしたちは、似ているようで正反対ですね。
わたしは多分泣くのが好きなのだと思います。泣くとすっきりするし、落ち着きます。自分の心と体が直結している実感があるのがいいのかもしれない。涙を流すことで、心が体にわかってもらえているような気がします。すると心が落ち着いてくれる。これは確かに、書くことと似ていますね。「言葉を書き出す」という行為をすることで、心と体がつながっているのを確認するような。
ああ、そっか。わたしにとって「書く」とは、心と体がつながっているのを確認する作業でもあるのかもしれない。サクちゃんにこれを書いていて、なるほどなと思いました。
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サクちゃんは、会う前からわたしの文章を読んでくれていました。それで実際に会ったときの印象が「思ってたより元気だな」だったとのこと。読んで笑ってしまいました。
文章を読んでくれていた方に初めてお会いしたとき、よく言われるのが、
「思っていたよりも社交的なのでびっくりしました」
というものです。「思ってたよりよく笑う」とか「思ってたより明るい」とか。普段自分はどんだけ暗く閉じた文章を書いているんだろうか、と苦笑いしてしまいます。
平野啓一郎さんの著書に『私とは何かー「個人」から「分人」へ』というものがありますね。「分人」とは、接する相手によって自分が変わる(自分を使い分ける)ことであり、それは自然なこと、という内容でした。
書くときのわたしはきっと「自分に接しているときの自分」であり、話しているときのわたしは「人に接しているときの自分」なのでしょう。だから、文章とおしゃべりでは違う顔をしているんですね。
わたしは「自分に接しているときの自分」を、とても大事にしているのだと思います。
「書く」とは心と体がつながっているのを確認する作業だ、と先ほど書きましたが、その時間がなくなるとおかしくなってしまいます。ときどき「よくそんなに大量の文章が書けるね」と言われますが(わたしは日中書き仕事をして、夜にはネット上で日記を書き、さらにベッドの中で誰にも見せない日記も書いています)、これはもう、努力してそうしているのではなく、そうせざるを得ないから書いているのです。
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