一故人

コロナ禍の2020年、世を去った群像

2020年、志村けん、李登輝、ジョン・ル・カレ、宅八郎、C.W.ニコル、ジョージ秋山、岸部四郎、坪内祐三……多くの人々が鬼籍に入りました。今回の「一故人」は、この一年に世を去った人々の足跡に目を向けます。

「ぐろうばりぜいしよん。ぐろうばりながら うちに蒼白く国家を はらむ」

前衛短歌運動の旗手として世に出て、後年は宮中の歌会始の選者も務めた歌人の岡井隆(7/10・92歳。以下、日付は命日、年齢は享年を示す)は、2003年の時点でグローバリゼーションの進展をこんなふうに詠んでいた。

この短歌は色々と解釈できるだろうが、私は、どうしてもグローバリゼーションに対する反動からナショナリズムが胎動するさまを想像してしまう。実際、ここ数年、そのような動きは、米トランプ政権の誕生やイギリスのEU離脱などといった形で世界各地に表れていた。そこへ来ての新型コロナウイルスの感染拡大で、グローバルな人の流れが止まり、そうした傾向はますます顕著になったように思われてならない。

ウイルスの拡大に世界が振り回された今年(2020年)は、例年になく、各分野を代表するような人物たちがあいついで亡くなった。ここで今年起こったできごととともに振り返ってみたい。

それにしても、21世紀に入って感染症がこれほど世界中に拡大し、政治・経済から日常生活のレベルにまで影響をおよぼすとは誰が予想しただろうか。これについて、文明論的な著作も多い劇作家・評論家の山崎正和(8/19・86歳)は亡くなる直前、「疫病が社会を世界規模で揺るがすのは昔の話であって、現代はつとに別次元の時代を画しているという通念が傲慢にほかならず、ただの妄信にすぎなかったことを万人が思い知ったのではないだろうか」と、現代人の思い上がりを指摘していた。

英ウェールズ出身(のち日本に帰化)の作家C.W.ニコル(4/3・79歳)が、紀州・太地の鯨取りをテーマに著した歴史小説『 勇魚 いさな 』(1987年)では、幕末のコレラ流行にも言及されている。太地はほかから孤立した村のため、コレラは伝わってこなかった。ただ、疫病への恐怖が、村人たちによそ者に対する疑心を呼び覚まし、隣村から来る行商の老婆が追い返されたりした。残念ながら、今回のコロナ禍でも、世界中で似たようなことが繰り返されている。

コロナ禍は、学校の授業がリモートになるなど、若い世代にも大きな影響をおよぼした。「内向の世代」と呼ばれた一群の小説家のひとり、古井由吉(2/18・82歳)は、自分の世代には、高校に入った1953年頃に2つの画期的なできごとがあったとして、朝鮮戦争の停戦とともに、結核の治療薬であるストレプトマイシンが市場に出回ったことを挙げている。それ以前の世代には、結核にかかって進学が遅れ、将来を悲観する高校生も少なくなかった。それが古井の世代になると結核の脅威が去り、その安堵感が人格形成にも影響を与えたという。

新型コロナ感染症の治療で、投与が試みられた薬の一つにインターフェロンがある。インターフェロンは最先端の遺伝子工学を用いて量産され、抗がん剤や抗ウイルス剤に使われている。岡山市を本拠とする企業・林原は80年代、4代目社長の林原健(10/13・78歳)のもとでこの量産技術の開発に成功し、従来の水飴やブドウ糖などの製造業から世界的な医薬・食品素材メーカーへと発展した。だが、同社は粉飾決算の発覚から2011年に会社更生法の適用を申請、林原は引責辞任する。

アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社で1981年から20年間、会長兼CEOを務めたジャック・ウェルチ(3/1・84歳)も、従来の総合家電メーカーからの脱却を図った。そのために、小型家電などの不採算部門を売却する一方で、収益を見込める保険会社やリース会社などを買収した。ただ、このあと2008~09年の金融危機でGEは巨額の損失を出し、ウェルチ時代に買収した事業の大半は売却され、いまなお負の影響を残す。

三井住友銀行頭取や日本郵政社長を歴任した西川善文(9/11・82歳)は、旧住友銀行に入行して以来、バンカー人生の大半を取引先の企業や自行の不良債権処理という裏方仕事に費やしてきた。その実績から、平時ではない時代の最後のバンカーという意味合いで「ラストバンカー」の異名をとった。

銀行といえば、『釣りキチ三平』などで知られるマンガ家の矢口高雄(11/20・81歳)は、高校卒業後、地元・秋田の地方銀行に就職した。かつてマンガ少年だった彼は20代後半になって再びペンを執り、マンガ専門誌『ガロ』に作品が掲載される。そのときはプロになるつもりはなかったが、勤務先の支店長に「君はたしかにマンガはうまい。しかし、いつまでもそんなものにうつつを抜かしているようでは……」と言われて奮起し、31歳にして銀行をやめた。少年誌での連載が決まったのは上京後のことである。

今年、少年誌での連載が完結したマンガ『鬼滅の刃』は、劇場版アニメもヒットしたが、刺激的なシーンもあるため、12歳未満の鑑賞には保護者の助言・指導が必要とされた。ひるがえって半世紀前、少年誌で連載されたジョージ秋山(5/12・77歳)のマンガ『アシュラ』には、飢えた主人公が人肉を食う描写が出てきたため、掲載号が各自治体で有害図書に指定された。しかし過激な描写はこけおどしではなく、根底には、人間の存在や愛に対する問いがあった。1973年より44年間にわたって青年誌で連載され、渡哲也(8/10・78歳)の主演でドラマ化もされた時代劇『浮浪雲』にも、飄々としたなかに同様のテーマが流れている。

テレビアニメにも長寿作品は少なくないが、シリーズが続くうちに声優の高齢化という問題に突き当たる。シンエイ動画が制作する『ドラえもん』はこの問題を、同社の設立者のひとり、楠部三吉郎(3/20・82歳)の決断により、1979年の放送開始から26年を経て声優陣を一挙に交代することで乗り越えた。

同じく長寿アニメの『サザエさん』と『それいけ!アンパンマン』では、それぞれマスオとジャムおじさんを演じてきた声優の増岡弘(3/21・83歳)が2019年、高齢を理由に自ら卒業している。人気テレビ番組『鶴瓶の家族に乾杯』でも、俳優の久米明(4/23・96歳)が90歳を超えてもナレーションを務めてきたが、やはり2019年に体調を崩したのを機に降板した。ちなみに『ドラえもん』はシンエイ動画が制作する以前に、1973年にもテレビアニメ化されており、富田耕生(9/27・84歳)がドラえもんの初代声優を務めた。

コメディアンの志村けん(3/29・70歳)がコントで演じた「バカ殿」や「変なおじさん」も、マンガやアニメのキャラクターと同様、人々の心に生き続けている。志村は笑いの世界に入る際、コント55号かドリフターズのどちらの門を叩くか悩んだ末に、音楽が好きだったので、コミックバンドのスタイルをとっていた後者を選んだ。それだけに、彼の笑いのベースには常に音楽的な要素があった。テレビ番組『志村けんのだいじょうぶだぁ』(1987~96年)のコントでは、歌手・守屋浩(9/19・81歳)の1959年のヒット曲「僕は泣いちっち」の替え歌をよく歌っていたのを思い出す。

志村けんがドリフターズの門を叩いたのが1968年。その4年前には、ドリフの先輩グループにあたるクレージーキャッツの植木等が付き人に小松政夫(12/7・78歳)を採用している。小松は付き人時代、クレージーキャッツのショーの合間をつなぐコーナーを任され、映画解説者の淀川長治のモノマネをして爆笑をとった。これを機に植木のお墨付きを得て、コメディアンとして独り立ちする。

映画作家の大林宣彦(4/10・82歳)は淀川と交流があり、彼が亡くなったあとには、その少年期を描いたテレビドラマ『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』(2000年。翌年、劇場でも公開)も撮っている。

もともと個人制作の映画でデビューした大林は、CM制作でも注目されながら1977年、『HOUSE/ハウス』で商業映画に進出した。商業映画はこれ1本きりのつもりが、親しいプロデューサーに請われて同年中に2作目となる『瞳の中の訪問者』を撮る。手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』を実写映画化した同作では、無免許医のブラック・ジャックを宍戸錠(1/18・86歳)が演じた。じつはこの企画を打診されたとき、大林はハリウッドでカーク・ダグラス(2/5・103歳)出演のCMを撮る予定がすでに入っていた。しかし、広告代理店の担当プロデューサーに相談して、映画のためCMの撮影を1ヵ月待ってもらったという。

前出の志村けんはコロナウイルス感染が報じられてわずか半月ほどで訃報が伝えられ、人々に衝撃を与えた。著名人ではこのほか、女優・タレントの岡江久美子(4/23・63歳)、韓国の映画監督キム・ギドク(12/11・59歳)、元外交官・首相補佐官の岡本行夫(4/24・74歳)、元フランス大統領のヴァレリー・ジスカール・デスタン(12/2・94歳)などといった人たちが、やはりコロナが原因で亡くなっている。

ジスカール・デスタンは大統領在任中の1975年、石油危機後の世界経済の運営について協議するため、主要国首脳会議(サミット)の開催を提案した。その第1回、パリ郊外のランブイエ城でのサミットには、岡本行夫も日本の外務省のスタッフとしてかかわっている。出発前、準備のため半徹夜の作業が何ヵ月も続き、岡本は「誰が始めたサミット会議、コピーの機械も焼き切れて……、あたしゃ憎いよジスカール」というざれ歌をつくって、省内に配布したという。

岡本は外務省を退官後、1996年に橋本龍太郎内閣で新設まもない首相補佐官となり、沖縄問題を担当した。ちょうど同年4月には、日米政府が沖縄の米軍普天間飛行場の移設に合意したばかりだった。のちに彼は、当時の橋本首相も、官房長官で沖縄担当相だった梶山静六も、戦争中の沖縄の犠牲とその後の窮状を常に意識していたと証言している。

1967年に沖縄から初めて芥川賞を受賞した小説家の大城立裕(10/27・95歳)は、基地や戦争を題材とした作品を多数残した。普天間についても、米軍ヘリコプターの墜落事故など現実のできごとを交えながら、当地出身の若い女性の視点からつづった「普天間よ」(2011年)という短編がある。

90年代に沖縄問題に取り組んだ自民党政権には、まだそれなりの哲学があったように思われる。台湾で当地出身者として初めて総統になった李登輝(7/30・97歳)は、晩年の著書『指導者とは何か』(2015年)で「信仰なり、フィロソフィー(哲学)なり、政治を超えたところにある何かを自分の内にもたずに政治を行なえば、使命感が希薄になる。政治を実行するエネルギーも弱くなるのではないか」と書いている。いまの日本に、そうした政治を超越した何かを持った政治家が果たしてどれだけいるだろうか。なお、李登輝は敬虔なクリスチャンであった。

コロナ禍のなか、今年7月には東京都知事選が実施され、史上最多となる22名が立候補した。さかのぼること45年前、1975年の都知事選では16名が立候補し、やはり史上最多といわれた。保守系候補の石原慎太郎が、革新系の現職・美濃部亮吉に勝負を挑んで惜敗した同年の都知事選では、美術家の秋山祐徳太子(4/3・85歳)も「保革の谷間に咲く白百合」をスローガンに立候補した。

秋山は1995年、所用でドイツ・ベルリンを訪れた際、ブルガリア出身の美術家クリスト(5/31・84歳)が巨大な布で梱包した国会議事堂をたまたま目にしている。クリストは妻のジャンヌ・クロードとともに、建造物を梱包したり、大自然に巨大なカーテンを張ったりと大規模なプロジェクトを世界各地で展開した。1985年には、パリ・セーヌ川にかかる石橋を包んだ「ポン・ヌフの梱包」を10年がかりで実現している。

ポン・ヌフでは、ファッションデザイナーの髙田賢三(10/4・81歳)も1994年に大規模なイベントを行なっている。それは彼の創始したブランド「ケンゾー」の女性用香水のPRの一環で、欄干を赤、ピンク、黄のベゴニアの花で埋め尽くすものだった。この前年、ケンゾーは大資本に買収され、髙田はそこにいたる過程で、かねてより関係が悪化していたフランス人の共同経営者とますます対立を深めていた。そのなかにあって、ポン・ヌフのイベントは好評を得て、このときだけは彼の心も晴れたという。

髙田は1999年にケンゾーのデザイナーを退任。その後、個人で新たなブランドを立ち上げるも自己破産に追い込まれるなど、波乱が続いた。彼もまたコロナに感染し、パリで生涯を閉じた。

1970年にパリに出店した髙田に続き、翌1971年には山本寛斎(7/21・76歳)がロンドンで日本人初のファッションショーを開いた。山本は80年代以降、ファッションショーの域を超えた大規模なイベントに新たな道を見出す。1993年には、資金集めからすべてを自分でこなして数年がかりでモスクワでのイベントを開催にこぎつけた。この成功以降、「スーパーショー」と名づけたイベントを国内外で展開する。

山本寛斎がモスクワでイベントを開催したのは、冷戦が終結し、ソビエト連邦が崩壊した直後だった。イギリスの小説家ジョン・ル・カレ(12/12・89歳)は、『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963年)をはじめ、東西冷戦下における諜報戦をリアルに描いたスパイ小説で多くの読者を得た。彼は、自身もMI6(イギリス情報部)のスパイだった経歴を持つ。

MI6といえば、イアン・フレミングの小説で映画化もされた『007』シリーズの主人公ジェームズ・ボンドの勤務先でもある。ボンド俳優としてブレイクした英スコットランド出身の俳優ショーン・コネリー(10/31・90歳)は、のちにル・カレ原作の映画『ロシア・ハウス』(1990年)でも主演している。

コネリーは人気俳優となってからも長らく米アカデミー賞とは無縁だったが、『アンタッチャブル』(1987年)で助演男優賞を受賞した。同作では音楽のエンニオ・モリコーネ(7/6・91歳)もアカデミー作曲賞にノミネートされたが受賞を逃す。イタリアが生んだ映画音楽の巨匠がアカデミー賞に初めて輝いたのは、2007年、名誉賞が贈られたときだった。その後、『ヘイトフル・エイト』(2015年)で87歳にして作曲賞を受賞した。

サッカーファンだったモリコーネは、1978年のアルゼンチンでのFIFAワールドカップのテーマ曲も作曲している。のちに彼は、この曲の思い出として、毎試合前の演奏が「お世辞にも『いまひとつ』という程度」でがっかりしたと述懐している。

アルゼンチンでのW杯開催当時、17歳だったディエゴ・マラドーナ(11/25・60歳)は、自国開催にもかかわらず代表に選ばれず、悔し涙を流した。当時のアルゼンチンは軍事政権下にあり、代表監督は国家の威信のため絶対に負けるわけにはいかず、手堅いメンバーでチームを組まざるをえなかったのだ。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

takasan1701 大変な年でしたが皆様いかがお過ごしでしたか? たくさんの輝きを残してくださった方々に思いを馳せて... 4ヶ月前 replyretweetfavorite

10ricedar 連載もこの方の文章も初めて読んだけれど 情報量すごくないか??頭の中どうなっているのだ?? 頭良くなった気になれました、アリガトウゴザイマス 5ヶ月前 replyretweetfavorite