第十二回】久松温泉と冷やしたぬきうどん (後編)

長い長いまえふりを終え、ようやく本編へ。今回の舞台は、池上。昭和30年度の掘削以来、50年湧き出し続けている天然温泉の久松温泉で汗を流し、ふらっと散策。池上本門寺手前のそば屋で足を休める。「孤独のグルメ」でお馴染みの久住昌之氏がおくる、「風呂」×「グルメ」の痛快エッセイです。

 旅から帰って、また大田区の温泉に朝湯に入りに行った。
 池上線の池上駅から徒歩六、七分の「久松温泉」。午前十時からやっている。
 だんだん慣れてきたのか、十時に都内の風呂に出て行くのが、特別なことではなくなってきた。いいことだ。
 しかし池上線には用事がない。池上駅も当然初めて降りた。新鮮だ。駅前の感じも、住み慣れた中央線とはまるで違う。まるで違うんだけど、なんとなく歴史があるような感じがする。ボクの知らなかった東京の歴史が。
 なんだろうと思って、駅で地図を見たら「池上本門寺」という大きそうな寺がある。今はスマートフォンですぐ調べることができる。すぐに池上本門寺のホームページが出てきた。
 なんと弘安五年(一二八二年)に、日蓮聖人がここでお亡くなりになったらしい。約七百年の歴史がある寺だった。よし、風呂上がりに行ってみよう。
 そう思うと、駅前に古そうな立派な和菓子店もあった。葛餅が売りのようだ。これも寺繋がりな気がする。参拝客のお土産的な。
 道すがら古そうな個人商店がたくさんあり、ワクワクする。中華料理店、食堂、カレーキッチン。豆専門店も古そうだ。「林機械店」とか「加藤富治郎商店」とか、店名だけでぐっとくる店もあり、この街が自分にとって東京の盲点だったような気がしてくる。
 やがて煙突が見え「久松温泉」に着いた。古そうだが、しっかりした鉄筋の建家。
 番台型ではなくフロント方式で、ロビーも広くて、ソファーがあって、大画面のテレビも置いてあり、広々している。
 脱衣所で服を脱ぎ、浴場へ。ここも広々している。この時間から、混んでいる。十人近くの客がいる。根拠はないが、みな近所の常連に見えた。そのリラックしきった表情や、ゆったりとした動きのせいか。
 予想どおり、黒湯だった。
 からだを洗って、入ろうとしたら、熱い。これはまだちょっと入れない。
 透明な湯に入る。ここに入っている老人もひとりいる。
 入って黒湯の様子を見ていたら、浴槽に蛇口からじゃんじゃん水を入れている客がいる。水と言っても黒いから水ではないのかもしれないが、でもその入れている様子が「うめている」という感じなのだ。いいのだろうか。でも誰もとがめない。けっこうじゃんじゃん入れて、止めて、蛇口のすぐそばに入った。
 よし、あの人の後に入ろう、と思った。で、その客が浴槽の奥のほうにすーっと湯の中を移動したので、ボクはすかさず透明の湯を出た。それで、素知らぬ顔で、その黒湯の蛇口そばに入った。やはり熱い。でもこれなら入れる。ちょっとがんばって、首まで浸かった。
 浸かってしまったら、どうしたことだ、気持ちがいい。ただピリピリ熱いのではなく、熱いけどジンワリしている。たしかに温泉だ。試しにほんのちょっとだけ、蛇口をひねったら、やっぱり黒い水だった。でもすぐ止めた。とても一見の客には湯を水でうめるなんてできない。もっともタブーな行為だ。
 ここを出て、テラスのような、不思議なオープンエアスペースに出てみた。
 まだ残暑で、日差しが暑い。陰のところに座る。でも湯上がりだから、なんだかちょうどいい。木の長椅子に腰掛けたのだが、全裸に外の空気が心地よい。
 後から、黒湯をじゃんじゃん水でうめた人が出てきた。まだ五十代に見える。ボクより年上だろうが、案外変わらないかもしれない。向こうもボクのことを自分より年上と見ているかもしれない。でも常連だろう。観用植物の鉢がいくつか置いてあり、ちょっとしたサンルームみたいな、不思議な空間。でもなんでもないようなこのスペースが気に入り、しばらくそこにいた。案外こういうスペース初めてだ。
 季節もいいから、冷えることもない。だが、もう一度風呂に入りに戻った。
 からだが慣れているのか、黒湯がさっきほど熱く感じなかった。また新たに、あらためて、気持ちがいい。黒湯は肌アタリがやっぱりやさしい。しばらく浸かって、また表に出た。やっぱり外気はからだに気持ちよかった。
 やばい。これは、永久に繰り返していたくなる。
 しばらくそこで無為に過ごして、無料のスチームサウナに入ってみることにした。
 入ったら、熱い! 熱いなんてもんじゃない。まず床が熱くて、足を着いていられない。石の腰掛けも熱過ぎるので、タオルを敷いて座った。だが足が着いていられないから、足を上げて尻だけでからだを支え、変な姿勢だ。手も熱くて着いていられない。というか蒸気が顔にも熱く、目を開けているのも苦しい感じだ。たまらず脱出するように飛び出した。誰も入っていなかったが、こんなモノに入る人、いるのだろうか? スゴい湿度と温度と、踏むもの触るものそこら中の高熱だった。
 もう一度テラスに出る。座ったまま全裸で眠っている人がいた。わかる。
 あと一回黒湯に入って出ようと思ったら、洗面器に黒湯(黒水?)を持ち、風呂の椅子を持ってスチームサウナに入って行く中年男がいた。気になって、ひと呼吸おいて、彼を追って入ってみた。
 そしたら、なんと彼は石の腰掛けの上に風呂の椅子を置き、そこに横に座って、洗面器の中に足を漬けて、頭からタオルをかぶっていた。洗面器の中は間違いなく黒水だろう。スゴい! 強引というか、周到というか、タタカイというか。そうやって入るのか。いや、そうでもしないと入れないだろう。いいのか久松温泉的には。ボクは、男のスチームサウナ姿を見届けて、すぐさま出た。
 ざっと黒湯でからだを流して、上がる。今までで一番長時間風呂に入っていた。
 ロビーのソファーでしばらく休む。コーヒー牛乳を飲む。ウマイ。クーラーは多少効いていたが、汗がいつまでも止まらず、置いてあるうちわでずっと扇いでいた。

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ふらっと朝湯酒

久住昌之

三度TVドラマとなることが決定した「孤独のグルメ」の原作者久住昌之が、新たに提案するのが“ふらっと朝湯酒”。その名の通り、朝からお風呂入って一杯飲るという試みを、やってみようというエッセイである。朝から飲むからって、♪朝寝朝酒朝湯が大...もっと読む

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