蘭ちゃんへ
こんにちは!
先日、1年ぶりに京都で蘭ちゃんに会えました。ここで毎週やりとりをしているし、オンラインでおしゃべりもしていたけど、会って話すことはほんとうに特別にうれしくて楽しいなー!と、改めて思いました。こういう感覚は覚えておかないとな、とも。
前回の日記で、蘭ちゃんは「意識しなければ『SNSに書いてあることが、だいたい自分に関係ある』と思ってしまう」と書いていましたが、「会って話す」は、目の前にいる人と完全に関わっていて疑う余地がありません。そのことがこんなにも安心をうむんだなと実感しました。
逆から見ると、「今入ってくる情報」をただ受け取ること、関係あるかないかを判別すること、関わるかどうかを決めること、そういう小さなことの中に小さな不安があることも、よくわかります。SNSのしんどさみたいなものは、きっとそれが積み重なっているんだろうな。
*ー*ー*
前回「SNSによって受信過剰になっているのでは」と書きましたが、「サクちゃんは、発信するときに気をつけていることはありますか?」という質問をもらったので、発信についても考えてみました。
前にも書いたように、わたしはSNSを「双方向ではなく『勝手な発信』と『勝手な受信』で成り立っている」と捉えています。
受信に関しては、どう受け取ろうと自由で好きにしても誰にも見えませんが、発信は見えてしまいます。
……と書いて、自分で気が付いたんだけど、「見えちゃうんだよな」と感じているということは、誰かに見せるための、他人が見る前提の「発信」ではないのかもしれません。うん、わたしはSNSで何か書くときに、「発信」のように自分から矢印が出てだれかに届けるというイメージがないですね(明確に何かお知らせしたいことがあるときは別だけど)。
じゃあ、なんで、どんなつもりで書いているのかというと、メモです。
ふと思ったことや感じたこと、見かけた小さな出来事、長く考えているなかでちょっとわかりかけたこと。ほっといたらきっと忘れちゃうことを、忘れないように書いています。いやー、ほんとうに忘れちゃうからね、驚くほどに。
自分のためのメモだけれど、誰が見るかわからない場所という点で、誰かを傷つけることを書かないとか、怒られることは避けるなどの意識はあります。他人の目をまったく意識していないわけではないし、読んだときに誤解が少ないように気をつけてもいると思います。
人が見る可能性のあるところで言葉を書くとき、整えながら意識しているのが、わたしの尊敬する人が言っていた「どんな文章も自己紹介だ」という考え方です。誰かに読んでもらうために書いた文章じゃなくても、そこに意味や意図などなくても、どんな文章の中にも必ず「自分」は出る。そういうものなんだと。ほんとうにそうだなと思うし、何度も思い出します。
わたしは、誰かが他人の悪口を書いたり中傷するのを見ても、それが正しいかどうかは関係なく、その人の自己紹介として受け取っています。何をどう感じようと、どんな黒い思いがあろうと自由だし、誰もがきれいな感情ばかりもっているわけではありません。でも、それをどこに出すかは、マナーとセンスが問われています。自分も気をつけています。
逆に、整えすぎて自分とかけ離れたものにならないようにもしています。他人からどう見えるかばかりを意識して書いたものは、そのまま「こう見られたいのだな」という部分が伝わるものだし、そういう意味でも自己紹介になってしまうのだと思います。
というわけで、わたしがSNSで書くことは、忘れないためのメモと、自己紹介のふたつの要素でできているようです。
*ー*ー*
SNSで書いたものは、長い時間をかけて自己紹介をしているという考えは、「SNSでできた良い関係はありましたか?」という質問の答えにもつながります。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。