七
天正十九年(一五九一)五月、藤十郎と又四郎を従えた藤九郎は、豊前国の中津への道を急いでいた。季節は初夏だが、まだ梅雨は終わっておらず、雨の降る日が続いていた。そのため豊前街道は泥道と化しており、歩きにくいことこの上ない。
──こんな道も、いつかは歩きやすいものに変わる。
外征が終わった後、清正は諸街道の整備を進めるつもりでおり、ゆくゆくは、この街道も拡幅されて地ならしが行われるはずだ。
藤九郎の背後には、藤十郎と又四郎が歩いている。
藤九郎が小者に選んだのは又四郎だった。
「又四郎、わしがそなたを連れていきたいと申すと、父上がたいそう驚いておったな」
「はい。でもその後には、藤九郎様のお役に立てると思い直し、喜んでおりました」
又四郎が満面に笑みを浮かべると、藤十郎が汗を袖で拭きながら口を挟んだ。
「兄者にも、よき弟子ができたな」
「何を言っている。又四郎は家を継いで百姓になる。小者をやってもらうのは此度だけだ」
「いいえ、私は藤九郎様のような城取りになりたいんです」
薄々感じてはいたが、又四郎は藤九郎の仕事に強い関心を示し始めていた。
──だが、それでは弥五郎殿に申し訳が立たぬ。
又四郎は惣領息子で、弥五郎の田畑を引き継ぐ身なのだ。
「父上の仕事を継ぐつもりはないのか」
「はい。城取りに田畑は要りません」
「それは、よき考えではないな」
「なぜですか」
「農事こそ国の基だからだ。城などというものは、世が静謐になれば不要になる」
「世は静謐になるのですか」
それについては何とも答えようがない。それを決めるのは秀吉だからだ。
「藤九郎殿、あれが中津の城だ」
先頭を行く北川作兵衛が、手に持っていた杖で前方を指し示した。
「さすが黒田家の城だ。大したものよ」
総石垣造りの堅牢そうな城が見えてきた。城の周囲には無数の高櫓が林立し、城下を睥睨している。そこには、喩えようもない緊張が漂っていた。
──これは戦う城なのだ。
中津城は天正十五年(一五八七)、豊前六郡十二万五千石で入部した黒田官兵衛孝高によって築かれた。中津川の河口近くに築かれた平城なので、川水を引き込んで堀としており、その水が涸れることはない。
高櫓の数はざっと数えただけで二十以上もあるが、その中でも中天にそびえるように建つ天守の威容は、他を圧倒している。
──これが豊臣大名の権威なのだ。
この城を見るだけで、藤九郎には黒田孝高、そして秀吉の真意が分かる気がした。
──右府(信長)様や関白殿下の世になり、城は権力の大きさを知らしめるために築かれるようになったが、この地では、まだその段階ではないのだ。
安土城は、難攻不落の大要害というより「見せる」城だった。秀吉が造ることになる伏見城も大坂城も「見せる」という点に重きが置かれていた。だが中津城は籠城戦を想定した城だった。それは豊臣政権が、九州を危険地域と認識しているからにほかならない。
ちなみに大坂城が難攻不落の大要害となるのは、第二次と第三次の追加普請が終わった後で、築城当初は「見せる」要素が強かった。
──わが殿の城も、権威の象徴でありながら、籠城戦にも耐え得る堅牢さを併せ持つ城にせねばならぬ。
外征が始まるので、ここのところ新城構築の話は進んでいない。だが外征が終われば、藤九郎たちは清正の本拠となる巨大な城を築くことになる。
──どのみちわしは下役の一人だろうが、殿の城造りに携われるだけでも城取り冥利に尽きるというものだ。
その時、藤九郎にどのような役割が課されるかは分からない。それでも藤九郎には、清正の城を築くことが楽しみだった。
やがて一行は、中津城の大手門に着いた。
作兵衛が来訪を告げると、黒田家の取次役が現れ、一行を三の丸大広間へと案内してくれた。
すでに名護屋城では、測量や石の切り出しといった経始が始まっているためか、中津城内にも多くの人が行き交っており、戦場のような騒ぎになっていた。
案内された間に入ると、すでに小西、島津、毛利といった大名たちの普請作事方が居並んでいる。
作兵衛はほかの家中にも顔見知りがいるらしく、互いに頭を下げては「お久しぶりです」などとやっている。
──わしには、そうした知己はいない。
何事も人間関係によって便宜や融通が図られる世の中なので、そうした関係を全く持たない藤九郎は、これからそうしたものを作っていかねばならない。それゆえ作兵衛の後に付いて回り、諸家中の同業者に紹介してもらった。
それから半刻ほどして最後の家中が到着し、ようやく普請作事の評定が始まった。
「ご一同、よくぞ参られた」
堂々たる体躯の武将が、戦場錆の利いた野太い声を発した。
「それがしは、普請奉行の母里太兵衛と申す。以後、お見知りおきいただきたい」
──これが母里太兵衛殿か。
その名は藤九郎も聞き知っている。
後に『黒田節』という今様で歌われた母里太兵衛友信は、槍と酒で名を成した豪勇の士だが、普請と作事を専らとしている。
太兵衛は縄張りを決めた孝高と、その子で普請総奉行の長政から、名護屋城の普請作事全般の指揮を託されていた。
「さて、諸士もご存じの通り、此度の名護屋での普請作事は唐土進出の足掛かりとして大切なもの。また関白殿下の御座所ともなるので心して掛かっていただきたい。それでは早速だが、当家で吟味した縄張りをご覧いただく」
太兵衛は、大衣桁と呼ばれる大型の衣文掛けを運ばせると、絵図面を広げた。
──これが名護屋城か。
そこには、本丸を中心に大小の曲輪が描かれていた。
居並んだ諸士からどよめきが漏れ、前後左右から話し声が聞こえる。
「こいつは凄いな」
作兵衛が隣で呟く。この場には小者は連れてこられないので、加藤家からは作兵衛とその補佐役、藤九郎と藤十郎の兄弟という四人が参座している。
「縄張りを申し聞かせる前に、こちらを見ていただきたい」
太兵衛が絵図面を別のものに替えるよう指示すると、半島が描かれた絵図面が掲げられた。
「この城があるのは、九州の西北端の東松浦半島の先端部だ。この半島は南だけ陸続きで、残る三方は海に囲まれている要害の地だ。言うまでもなきことだが、敵に攻められることを想定して選地したわけでなく、様々な物資を積み出しやすい良港が多いことから、この地が選ばれた」
太兵衛が差し棒で絵図面を叩く。
名護屋城と書かれた場所の東には、深く入り込んだ湾があり、名護屋湾と書かれている。その北西方向に半島の先端が延びていき、さらにその先に玄界灘が広がっている。
半島の北東部には加部島と書かれた大きな島が横たわり、ちょうど風波を防ぐ形になっていた。
──物資を集積して積み出すのに適していそうだな。
とくに名護屋湾に面した半島東側の海岸線は入り組んでおり、図面を見る限り、天然の良港らしきものが随所に見られる。
「半島の先端近くに垣添山と呼ばれる小丘がある。ここに関白殿下の御座所となる城を築く」
太兵衛が、その場所を叩きながら続ける。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。