第二章 反骨の地
一
天正十七年(一五八九)の晩夏、田原山の普請は山場を迎えた。
藤九郎は弥五郎の屋敷に起居させてもらい、自ら陣頭に立って指揮を執っていた。
一方、菊池川治水に携わる源内と佐之助も現場で力を発揮していた。藤九郎が田原山普請に移ることにより、彼らとの関係は改善し、しばしば何かの土産を持って弥五郎の家を訪ねてくるようになった。
──何かを造るということは、厄介事を造ることだ。だがどのような厄介事だろうと、逃げずに取り組めば、必ず光明が見出せる。われらの仕事は、その繰り返しなのだ。
藤九郎にも、父が担っていた仕事の厳しさが分かってきた。
そうした日々を過ごす中、藤九郎は心に決めたことがあった。
「たつさんを嫁にいただけませんか」
家族が寝静まり、囲炉裏端で弥五郎と二人になった時、藤九郎は切り出した。
「たつを、誰の嫁に──」
予想もしていなかったのか、弥五郎が聞き返す。
「私の嫁にです」
「貴殿の嫁にと仰せか」
弥五郎が啞然とする。
「あのことがあってから、弥五郎さんの家に起居させていただき、たつさんの気だてのよさを知り、ぜひ嫁にいただきたいと思うようになったのです」
藤九郎は、ありのままの気持ちを話した。
「貴殿とたつでは──」
元が武士とはいえ弥五郎は農民なので、藤九郎とは身分に違いがある。
「分かっています。でも、私だって故郷に帰れば百姓です」
「貴殿は将来を嘱望されている。そのうち、ご家中のそれなりの家から縁談があるはずだ」
「実は、そうしたわずらわしさから逃れたいのも一つなのです」
「わずらわしさ、か」
弥五郎が苦笑する。
「貴殿は正直だな」
「申し訳ありません」
確かに嫁にしたい娘の父に、「わずらわしさから逃れたいので娘がほしい」と言うのも変な話だ。
赤面しつつも藤九郎は続けた。
「私は何の取り柄もない男ですが、何かを造ることだけは、多少なりとも心得があります。それがある限り、たつさんを食べさせていけると思うのです」
「それは分かっている。うちにとっては、またとない縁談だ。とくに貴殿が戦いを専らとする武士ではなく、知識と技能によって身を立てようとしている吏僚であることが、何よりもありがたい」
弥五郎の瞳は、感謝の気持ちで溢れていた。
「そう言っていただけると、うれしいです。武士に比べれば出頭も遅く、贅沢な暮らしは望めませんが、それでよろしければぜひ、たつさんを嫁に下さい」
藤九郎が頭を垂れる。
「何を仰せか。こちらこそ、お礼の申し上げようもない。だが本当にうちの娘でよいのか。貴殿が出頭していく上で、わしは何の役にも立てぬ」
妻の実家の引きによって、能力もないのに出世していく輩は多い。だが藤九郎にも意地がある。
「私は至らない者ですが、自分の腕一つで身を立てたいと思っています」
「そうか」
大きなため息をついた後、弥五郎が炊事場に向かって大声を上げた。
「たつはおるか!」
「はい。ここに!」
母親の声がすると、二人が何事かと駆けつけてきた。
たつは水仕事でもしていたのか、手巾で手を拭いている。
「どうかなさいましたか」
何か気に入らないことでもあったと思ったのか、二人は心配そうな顔をしている。
「又四郎はどうした」
「もう、とうに寝ておりますが」
「そうか。では、そこに座れ」
二人が不安そうな顔で、土間を背にした囲炉裏端に座る。
「実はな──」
弥五郎が藤九郎の申し入れを話すと、母親は啞然とし、たつは恥ずかしげに俯いた。
「そんな──、随分と急なお話ですね」
突然のことに、母親はどう判断してよいか分からないようだ。
「こうした話は、いつも急に始まるものだ」
「でも、たつはまだ十と四です。少し早いのでは──」
「女子は十と四にもなれば、子も産める」
その言葉に、俯いていたたつは消え入りそうなほど小さくなった。
「母上様」
「えっ、私のことですか」
藤九郎が突然威儀を正したので、母親はどぎまぎしている。
「どうかたつさんを下さい。必ず幸せにしてみせます」
「でも──」
まだ母親は、たつを嫁にやる踏ん切りがついていないようだ。
「遠くにやるわけではない。藤九郎殿は普請方として、隈本城下に住まいを与えられるはずだ」
「はい。そう聞きました」
藤九郎は活躍が顕著なため、足軽長屋の一つを与えられることになっていた。ほかの者たちは雑魚寝の大部屋なので、破格の待遇だ。
「われわれの気持ちよりも、たつの気持ちが大切だ。たつ、そなたの気持ちを聞かせてくれ」
たつは震える手を膝の上で組んでいる。
──断られるかな。
何といっても、まだ十四歳の娘なのだ。両親と離れるのは辛いはずだ。
「今、すぐにご返事いただかなくても──」
藤九郎が切り出そうとした時だった。
「そのお話、お受けいたします」
たつが三つ指をついて頭を下げた。
「えっ、それは真か」
今度は、藤九郎が啞然とする番だ。
「はい。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
──見た目では分からなかったが、芯が強いのだな。
藤九郎はうれしかった。
「お前、それでいいのかい」
母親が心配そうに問う。
「もちろんです。これほどのお方の嫁になれるなど、これ以上の果報はありません」
「そうかい。お前がいいなら、それで構わないよ」
母親が嗚咽を漏らす。うれしさ半分、寂しさ半分なのだろう。
「よし、これで決まった」
弥五郎が膝を叩く。
「母上様、たつ殿、どうか、よろしくお願いします」
藤九郎も頭を下げた。
「では、祝言は来月の吉日を選んで行おう」
「はい」
藤九郎とたつが声を合わせた。
「もう息が合っておるな。よきことだ」
弥五郎の笑い声が、目通り(直径)一尺五寸はある梁を震わせた。
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