—ここは、わしが育った町だ。|素志貫徹(十七) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。青年期から最晩年まで、「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、令和版大隈像をお楽しみください。

十七


 明治二十八年十二月、第九議会が開催された。この議会では、清国から得た賠償金をどう使うかが主要の議題となった。

 この審議の最中、多数を占める自由党に対抗していくために、大同団結が叫ばれ、翌明治二十九年(一八九六)三月に進歩党が結成された。これにより百三議席が結集され、自由党の百六議席に対抗していくことも可能になった。だが改進党の実質的リーダーの大隈の意見に賛同しない者も多く、党首が置かれなかったという事実からも分かる通り、野合の感は否めなかった。

 第九議会が終わった直後の同年四月、大隈は二十八年ぶりに佐賀に帰国することになる。


 —ようやく帰ってきたか。

 四月二十五日の午後、佐賀駅で汽車を降りた大隈は、車椅子を拒否して第一歩を踏みしめた。その瞬間、様々な思い出が一気に押し寄せてきた。

 —ここは、わしが育った町だ。

 鉄道の駅もでき、佐賀は二十八年前とは様変わりしたが、当時を偲ばせる建築物もまだ多数残っており、様々な思い出が次々と浮かんでは消えていった。

 —八太郎、ようやく帰ってきたのだな。

 晩春の涼風の中に、閑叟の声が聞こえた気がする。

「お父様、まだ歩くのですか」

 熊子が心配そうに問う。

「ああ、もう少し佐賀の土を踏みしめたいのだ」

 この頃から、熊子は大隈の秘書的役割を果たすようになっていた。ちなみにこの時、実母の美登と会わせてくれるという人がいたが、熊子は丁重に断った。もはや実母は遠い存在であり、それぞれ別の人生を歩んでいたからだ。

 大隈の傍らには介添え役の熊子が、その背後には数百人の出迎えの人々が続く。沿道にも多くの人出があり、大隈の姿を見た人は、この日だけで一万人以上と伝えられた。

 この時、同郷の武富時敏や江藤新作が、地元の有力者と共に大隈を出迎えた。武富も江藤新作も東京在住だが、先に帰郷して大隈を出迎える形を取ったのだ。

 武富時敏は、この頃の大隈の片腕の役割を果たしていた。一方、江藤新作は新平の次男のことで、進歩党に属し、武富と同じく衆議院議員となっていた。

 佐賀に着いた日はそのまま宿に入った大隈だったが、翌日から活発な活動が始まる。まず松原神社に赴き、続いて鍋島家の菩提寺の高伝寺に、最後に大隈家の菩提寺の龍泰寺に詣でた。

 さらに翌日から様々な式典に参加し、講演や座談を行った大隈は、五月四日にいったん佐賀を離れて武雄と伊万里を回り、十二日に再び佐賀に戻った。

 十三日は本行寺にある江藤新平の墓に行った後、来迎寺にある島義勇の墓に行こうとしたが、遠かったので断念し、代わりに川原招魂社(後の佐賀縣護國神社)に行き、佐賀の乱で死罪に処された十三人を祀った「嗚呼の碑」を参詣した。

 それが終わった後、境内に設えられた休息所で、大隈らはしばしの休みを取った。

「新作よ、貴殿の父は時代という荒波に抗し、見事な最期を遂げた」

「ありがとうございます。この佐賀の地以外では、父は反逆者として扱われ、私も肩身の狭い思いをしてきました。それを見事と言っていただけ、感無量です」

 江藤亡き後、大隈は新作のことをなにくれとなく心配し、経済的援助をしてきた。それに応えるかのごとく、新作は必死に学問を収め、衆議院議員にまでなった。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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