十五
明治二十五年(一八九二)になると、いよいよ危機的状況に立ち至った立憲改進党の党勢を回復すべく、大隈自ら陣頭に立つようになった。つまり大隈が再入党を果たしたのだ。
これは枢密顧問官を辞任したことで、誰に遠慮することもなく、表立った活動ができるようになったからだ。
明治二十五年(一八九二)の第二回総選挙で立憲改進党は三十八議席しか獲得できず、自由党が九十六議席という躍進を遂げたのとは対照的に惨敗を喫した。
国民が野党に望むことは過激な反政府論であり、穏健で現実的な野党は人気を博すことができないのだ。第一回と第二回の総選挙から、大隈はそれを学んだ。
だが松方正義率いる政府も、野党に対する選挙干渉問題が明るみに出て総辞職を余儀なくされ、同年八月に第二次伊藤内閣が発足した。
伊藤は外相に陸奥宗光を起用し、条約改正問題に本腰を入れて取り組むことになる。しかも自由党の星亨が政府と妥協し、双方は連携を深めていく。
これにより政府に対して是々非々の姿勢で臨んでいた立憲改進党は、梯子を外された格好になった。そのため大隈は、再び前面に出て党勢の回復に努めることになる。
大隈がまず主張したのは「責任内閣論」で、端的に言えば藩閥優先の政治体制を捨て去り、議会の決定を重んじることだった。
次に大隈は政府事業の民間への払い下げを主張し、いわゆる「小さな政府」を目指すべきだと唱えた。これには減税を中心に据え、民間の経済活動を活発化させるという狙いがあった。
さらに早急に条約改正を行い、自由貿易を促進すべきという論を唱えた。
大隈が前面に出てきたこともあり、明治二十七年(一八九四)の第三回総選挙では、立憲改進党は四十八議席を獲得し、党勢を多少回復した。しかし自由党の議席は百十九もあり、依然として差はついたままだった。この原因には、自由党が政府と妥協した星亨を追放し、再び強硬路線に転じたという背景があった。
そんな折に起こったのが日清戦争だった。
明治二十七年十月、早稲田の大隈邸に一人の男がやってきた。
「まさか君が来るとはな」
「驚かれましたか」
男は笑みを浮かべると、大隈と固い握手を交わした。
この日、大隈邸を訪れたのは外相の陸奥宗光だった。むろん約束をした上での訪問だったが、大隈は陸奥の顔を見るまで、本当に来るのか半信半疑だった。というのも二人は、これまでそれほど行き来があるわけではなく、何かの機会に会っても、挨拶程度の会話しかしてこなかったからだ。
大隈が陸奥の肩を叩きながら言う。
「まあ、今の世の中、何があっても驚かない。それよりもイギリスとの条約改正交渉の成功、おめでとう」
この七月、日本とイギリスの間で「日英通商航海条約」が締結された、すなわち明治政府の長年の懸案だったイギリスとの条約改正を成し遂げたのが、誰あろう陸奥だった。しかも日本は領事裁判権を撤去させ、関税自主権を得ることができた。大隈の外相時代は、大審院に限って外国人判事を起用するという見返りを用意したが、イギリスは、それにもこだわらなくなっていた。
この成功は陸奥の外交手腕というよりも、イギリスの事情があった。すなわち日本を対等の相手として友好関係を築くことで、イギリスにとって日本との貿易が盛んになり、日本市場において優位を築くことができるからだ。
イギリスを落としたことで、陸奥は不平等条約を締結していた十五カ国のすべてと条約改正に成功するという快挙を成し遂げる。
「大隈さんは、『鳶に油揚げをさらわれた』とでも思っているのでは」
年齢は大隈が六つ上になるので、陸奥は丁寧な言葉を使う。
「確かにな。私が成し得なかったことを、君はいとも簡単に成し遂げた。だが何事も時の勢いというものがある。君は時局に適ったのだ」
陸奥は時と場所を得ていた。だがこうした幸運も、政治家には必要なのだ。
「そう言っていただけると、肩の荷が下りた気がします」
「もう武士の時代ではないのだ。誰が功を挙げようと、この国のためになれば、それでよい」
自らが手掛けていた条約改正交渉が暗礁に乗り上げたのとは対照的に、陸奥は成功した。口惜しい思いがないと言えば噓になる。だが国のためを思えばこれでよかったとも思う。
「それで私が訪問した理由ですが——」
陸奥がパイプを掲げて吸ってもいいか問うてきたので、大隈はうなずいた。
「長きにわたり、この国の外交を担ってきた大隈さんに、ご高説を賜りたいと思いまして」
「なぜ、さほど親しくない私にそれを聞きたいのかね」
「大隈さんほど卓見をお持ちの方はいらっしゃらないからです」
「卓見ですか」と大隈がため息をつく。
「陸奥さん、本音で語って下さいよ」
陸奥のパイプから、強烈なパナマ産煙草の匂いが漂ってくる。
「分かりました。伊藤さんから『大隈さんに話を聞いてこい』と勧められたからです」
「清国との戦いに勝ち、飛ぶ鳥を落とす勢いの伊藤さんが、隠居も同然の私に『話を聞いてこい』とは意外ですな」
日清戦争に勝ったものの、政府はこれまでにないほどの難局に突き当たっていた。今後の清国との関係をどうするかという問題だ。その舵取りを任されているのが、外相の陸奥ということになる。
明治二十七年の春頃、朝鮮半島を飢饉が襲い、食べられなくなった農民の反乱が相次いでいた。
このままでは、ロシアに朝鮮半島への介入の口実を与えてしまうと思った伊藤は六月二日、数千人の派兵を行った。だが朝鮮国は独立してはいるものの清国の属国なので、当然のように清国が反発してきた。そのため伊藤は清国に対し、日清共同で朝鮮国に改革を促そうと訴えたが、清国はこれを無視した。
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