十四
明治二十三年十一月の帝国議会開始を控え、旧自由党系は大同団結を唱えたが、立憲改進党は加わらなかった。結局、七月一日の第一回総選挙で、旧自由党系の立憲自由党が百五議席獲得したにもかかわらず、立憲改進党は四十六議席で、自由党系の半分にも満たなかった。なお藩閥政治支持の大成会は六十三議席も獲得している。
十二月に入ると、山縣首相が陸海軍の予算を大幅に拡大すべきという演説を行った。これに対し、改進党は猛然と反対した。だが少数派の改進党では蟷螂の斧に等しく、黙殺に等しい扱いを受けた。
明治二十四年(一八九一)五月から松方正義内閣が発足したが、野党の劣勢は挽回し難く、政府は人材の登用などで相変わらず藩閥主義を変えず、土佐系や佐賀系の若者にさえ門戸は狭いものになっていった。
この頃から衰勢の改進党を率いたのは尾崎行雄で、第一議会で政府の予算案に噛みつき、議会を混乱させたものの、少数派ではいかんともし難く、予算は議会を通過した。
これからの立憲改進党を背負って立つ尾崎行雄の背後には大隈がいたが、尾崎は誰に対しても不遜な態度を取ることが多く、大隈や福沢を平気で批判した。しかし人材難の折でもあり、大隈は暴れ馬に等しい尾崎の手綱を取っていくしかなかった。
明治二十四年十一月、大隈は板垣退助とさしで話し合い、自由・改進両党の融合を進めていくという線で合意に至る。自由党と組むことは、政府への復帰の道を閉ざすことに等しかったが、改進党を維持するためには致し方ない選択だった。
この動きを知った政府は、二人の会談の直後に閣議を開き、天皇の諮問役たる枢密顧問官が現職にありながら政党活動を行ったとして、大隈の行動を問題視する。その結果、文部大臣の大木喬任が、辞職勧告の使者として大隈の許に派遣されてきた。
「大木さんがいらっしゃるとは珍しい」
自宅の居間に大木を招き入れた大隈は、葉巻とブランデーを勧めたが、大木は首を左右に振った。
「私が何を言いに来たかは分かっているだろう」
「分かっています。まずはお座り下さい」
大木が腰掛けると、椅子が軋む音がした。大木は以前にも増して太っていた。
「大木さんのご心痛は、察するに余りあるものがあります」
長らく元老院議長を務めていた大木は、山縣内閣では枢密院議長を務め、その後に発足した松方内閣では文部大臣に就任していた。この時、大木は政府内で松方と伊藤に次ぐ序列にあり、このまま行けば組閣することも可能だった。しかし不運にも大病を患い、また精神的にも痛手をこうむっており、薩長閥から敬遠され始めていた。
というのも明治二十四年四月に妻を病気で失った大木は、直後に自身も肺病を患い、生死の境をさまよったからだ。肺病は何とか克服したものの、大木はかつての気力を失っていた。すでに長女と長男を病で失っている大木にとり、妻の死去は精神的に大きな痛手となっていたからだ。
「そなたの気遣いには深く感謝している」
大木が寂しげに言う。政治的な立場は別として、大隈は大木のことを心配し、様々な配慮をしてきたからだ。
「われらも長い人生を歩んできましたね」
「そうだな。長いと言えば長いが——、決して楽しいことばかりではなかった」
明治二十四年、大隈は五十四歳、大木は六十歳になっていた。
「同郷の者たちの中で、大木さんは出世頭ではありませんか」
「それが何だというのだ。わしは結婚に二度失敗し、ようやく三度目の結婚で、よき伴侶にめぐり会えたと思ったものの、その伴侶さえ失った」
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