十一
明治二十二年(一八八九)の下半期になると、黒田の信任を得られた大隈の条約改正交渉が始まる。
だが、こうしたものは相手あってのものなので、こちらの思惑通りには運ばない。それでも大隈は粘り強く交渉を重ねていた。
その一方、二月十一日、大日本帝国憲法が発布された。伊藤が総理大臣の座から降りてまで執念を燃やした憲法が、遂に発布されたのだ。
憲法発布を祝うかのように、二月二十日、大隈はアメリカとの間に、改正通商航海条約を締結した。
だが同年三月末、駐米大使の陸奥宗光から、外国人判事の大審院への起用に関する「大隈案」が、憲法に抵触するという指摘がなされた。陸奥は政府側の人間なので、大隈へのアドバイス的なものだったが、大隈は「法解釈上、問題なし」と答えるにとどめた。
六月六日、井上毅法制局長官から同様の指摘があった。大隈は多忙でこれを無視したが、徐々に政府内で「おかしい」という声が上がり始めた。
陸奥や井上毅の指摘の要点は単純なことで、「憲法に官吏は日本人にするとあるにもかかわらず、裁判官を外国人にするのは違法ではないか」という点にある。
これに対して大隈の解釈は、「その通りだが、大審院判事にだけは『裁判所構成法の付則』があり、それに従えば問題なし」というものだった。
しかし憲法を、こうした下位の特別法や付則の解釈次第で覆せるというのも、おかしな話には違いない。
だが大隈は意に介さない。同月十一日、大隈はドイツと改正通商航海条約を締結し、実績を積み重ねた。
七月十四日に開かれた演説会には、三千人余の聴衆が集まっただけでなく、懐刀の矢野らの根回しが奏功し、大半の参加者が大隈を支持し、こうした演説会に付き物の野次や混乱もなかった。
だが七月十九日の閣議で、山田顕義法相から「大審院に任用する外国人判事に日本国籍を取らせないと、憲法違反になる。そのために『帰化法』の制定を急ぐ必要がある」といった指摘がなされた。つまり大審院判事に任命される外国人を帰化させ、日本人の国籍を取らせねばならないと言うのだ。
知識階級の欧米人で帰化する者など皆無なので、全く現実的ではなかったが、法的には「こうするしかない」ということだった。
山田の指摘は理路整然としており、法解釈を都合いいように捻じ曲げて、条約改正を急ぐ大隈に分はなかった。
この意見に伊藤と井上馨も同意し、七月末、大隈に「アメリカとドイツとの条約施行を延期するように」と要請した。
伊藤と井上馨までもが難色を示したにもかかわらず、大隈はこれを無視し、八月八日にロシアとも改正通商航海条約を結んだ。
大隈のよいところであり、悪いところでもある「独断専行癖」が出たのだ。
大隈は黒田の信任を得ており、黒田から指摘されない限り、「関係ない」と思っていたが、伊藤や井上馨の要請を無視してしまえば、ただでは済まない。
案の定、八月二日の閣議で山田法相の主張が通り、条約改正交渉は「帰化法」の制定がなされてからとなり、大隈の面目はつぶれた。
この閣議で大隈は、「帰化法」の制定には賛成したが、条約改正交渉の仕切り直しには同意しなかった。これに失望した井上馨は、かつて外相の後任に大隈を指名した責任を取るかのように故郷山口に帰り、この時に就いていた農商務大臣を辞任してしまった。いわゆる「抗議辞任」である。
こうなると盟友の伊藤も黙ってはいられない。その他の閣僚も「やはり大隈ではだめだ」となり始めていたが、大隈は「次はイギリスを口説き落とす」と豪語した。