六
年が明けて明治十七年(一八八四)を迎えた。松方デフレにより豪農層が経済的痛手を受け、政治活動を支援する余力はなくなっていた。
明治十五年三月の立憲改進党設立から明治十七年四月までの立憲改進党入党者千七百二十九人のうち、七十三・六パーセントにあたる千二百七十二人が結党後一年以内に入党した者で、それ以降の入党者は右肩下がりで減っており、党勢拡大どころか、存続の危機に瀕していた。
小野や矢野は大隈に地方遊説を勧めるが、大隈は「遊説すれば反政府的発言をせねばならず、そうした興奮に巻き込んで入党させるのは心外」として、地方遊説に踏み切らなかった。しかも立憲改進党は穏健で漸進的な路線を取っていることもあり、自由党に比べて人気がなく、一時的な盛り上がりが終われば、活動が下火になるのは致し方ないことだった。
七月、大隈は小野梓、河野敏鎌、前島密、そして大隈の秘書官的役割を担う矢野文雄を自邸に集めた。
「皆も知っての通り、わが党の活動が思うようにいかなくなった。それで今日は忌憚のないところを話し合いたいと思い、皆を呼んだ」
大隈に代わって小野が情勢を説明する。
「松方デフレはわざとではないにしても、われらの基盤たるべき地方の地主層や有力農民層に経済的打撃を与えました。私が遊説に行き、話を聞いたところ、もはや資金提供どころか、土地を切り売りしていかないと農業を続けられない状況だそうです」
前島がため息を漏らす。
「地方は、そこまで疲弊しているのか」
「はい。それだけならまだしも集会条例と新聞紙条例が改訂され、政党活動に制限が加わりました。また政府は密偵を使って党内の情報を盗み、さらに有力な党員の弱みを握り、スパイとして使うようになりました」
河野が目を剥く。
「スパイだと。そこまでやっているのか」
矢野が話を代わる。
「こちらも北畠さんに監察部を担ってもらい、防諜から政府内部の情報の収集まで行うようになりましたが、いかんせん人手も資金も足りません」
北畠さんとは治房のことで、明治十四年の政変で大隈と共に下野した後、行動を共にしてきた。北畠は大隈より年上の五十二歳。南北朝時代の勤皇家・北畠親房の末裔を名乗り、幕末には天誅組に参加した筋金入りの尊攘志士で、維新後は司法官となり、横浜、京都、東京裁判所長を歴任し、藩閥政治の汚職を糾弾してきた。
大隈が苦しげに言う。
「こうしたことから、われらの中には疑心暗鬼が渦巻き、結束もずたずたになっている」
政府の密偵活動は執拗で、両政党のみならず福沢本人と慶應義塾、交詢社、時事新報などにまで密偵網を張りめぐらせ、その一挙手一投足まで監視していた。
西南戦争と大久保の暗殺から十年と経っていないこの頃、徒党を組んで政府に物申すという姿勢が、いかに警戒されていたかが分かる。
政府としても、大隈、福沢、板垣らが武力革命を志向していないことは分かるが、彼らに触発された配下の誰かが政府要人の暗殺を謀る可能性はあり、警察(担当は警保局)としても警戒を怠ることはできなかった。
河野が大隈に問う。
「現状を打破することはできないのですか」
大隈が首を左右に振る。
「党の活動が袋小路に入りつつあるのは事実だ。政府は法律でいかようにも政党活動を規制できる。このままでは追い詰められるだけだ」
この頃、立憲改進党では、農村を救うために地租軽減を元老院に建白しようとしていた。だが建白だけでは無視されるので、もっと大きな支持を得られる運動にしていこうという意見が出ていた。だがそこまでやるとなると、農民運動に発展する可能性が高く、どこかで打ち壊しなどが起これば、兇徒聚衆罪(後の騒乱罪)を適用され、大隈ら党幹部も逮捕される。
前島がため息交じりに問う。
「では、大隈さんはどうしたい」
「私は解党しかないと思っている」
四人が顔を見合わせる。
「小野君はどうだ」