五
佐野常民の跡を継いで明治十四年の十月から大蔵卿の座に就いたのは、薩摩藩閥の松方正義だった。松方はそれまでの大隈の財政政策を転換し、デフレ政策に舵を切った。
西南戦争の戦費調達のために政府が発行した太政官札などの不換紙幣は、その後に深刻なインフレーションを引き起こしていた。
これに対して大隈は、本位貨幣の銀貨が不足していることが原因だと見切り、外債を発行して銀貨を増やし、それを不換紙幣の交換にあてていけば問題は解決するという積極財政に舵を切ろうとした。だが当時、大隈の下役で大蔵大輔だった松方は、一時的に経済成長は停滞するが、不換紙幣の回収によってインフレの終息を図ろうという意見だった。
大隈と松方が激しく対立したため、伊藤は松方を内務卿に転任させたが、大隈が下野したことで、松方を大蔵卿に昇進させた。
松方は明治十五年に日本銀行を設立し、不換紙幣を回収焼却し、紙幣発行量を減らすという緊縮財政に転じた。これを松方のデフレーション政策という。
ところがその弊害として、米穀などの農産物価格が急落し、農村に深刻な打撃を及ぼした。多くの地主階層や自作農が零落し、土地を売らざるを得なくなる。
この影響で、地方の有力農民層が政治活動をする余裕がなくなった。さらに集会禁止令や新聞紙条例の改正によって言論の自由も制限され、立憲改進党と自由党は苦境に立たされる。
そんな最中の明治十六年七月、大隈は懐かしい人物に会うことになる。
半蔵門外五番町にあるイギリス公使館は、広大な敷地に赤レンガ作りの建物が建つ豪壮なものだった。
執事の老人の先導で通されたのは、ヴィクトリアン調の内装で彩られた応接室だった。
本国から取り寄せたとおぼしきアンティーク家具の数々が、白い漆喰の天井や壁によくマッチしている。
——日本人は郷に入れば郷に従えで、ここまではやらない。
他国にあっても自国の様式にこだわる西洋人が、大隈には不思議でならない。
——彼奴らは外国にあっても、自国にいるのと同じような環境に身を置こうとする。
それが常に「自分たちがベスト」と考える西洋人の発想法だと、大隈はすでに知っていた。
「Long time no see you」
「お久しぶりですな」と言いつつ、ハリー・パークスが入ってきた。かつてと変わらず赤ら顔に、伸ばし放題の長いもみあげをしているが、年齢を重ねためか、もみあげには白いものが多く交じるようになっていた。
「こちらこそ長らくご無沙汰していました」
二人は歩み寄ると、固い握手を交わした。
大隈が問う。
「また何かトラブルですか。でも私はもう政府の人間ではありませんから、何もしてあげられませんよ」
「そうじゃないんだ」
「では、どうしたんですか」
パークスが背中に隠し持っていた包みを大隈の前に置く。
「これは——」
「デ・ラ・ルーの万年筆だ」
「そんな高価なものをどうして——」
「セ、ン、ベ、ツだよ」
「餞別ですか。ということは——」
パークスが椅子に座ると笑みを浮かべた。
「お別れの時が来たようだ」
「そうだったんですか」
考えてみれば、パークスはイギリス政府から派遣された公使であり、政府の命令によって、いつ異動があるか分からない身なのだ。
「日本での日々は十八年に及んだ。自分の人生にとって最も実りある時を日本で過ごすことができ、本当によかった」
平民階級の上、十五歳で広東のイギリス領事官で清国語通訳として採用されたことが、パークスのキャリアの始まりなので、イギリス政府内ではエリートではない。そのため十八年の長きに渡り、日本公使に据え置かれていた。
「十八年も公使をやっていただけたんですね」
「その間、あなたをはじめとした多くの日本人と知り合えた」
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