皆は、私に新たな政党を作れというのだな」|素志貫徹(一) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。青年期から最晩年まで、「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、令和版大隈像をお楽しみください。


 後に「明治十四年の政変」と呼ばれることになる大隈の失脚劇は、急速な近代化を図ろうとするあまり、積極的に外債を募ろうとした大隈の勇み足に始まり、伊藤らに内緒で意見書を天覧に供そうとしたことを、裏切り行為と取られたことが大きかった。

 また開拓使官有物払い下げ事件で薩摩閥を敵に回したこと、さらに天皇の巡幸に従っている間に、閣内で「大隈による政変」という陰謀論が囁かれ始めたことなどが、ないまぜになって起こったことだった。

 —わしは失脚させられたが、いつまでも藩閥政府による専制政治が行われてよいわけではない。

「藩閥政治打破」「迅速な近代化」という大隈の考え方は一貫していた。その点、若い頃は急進派でありながら、自分が宰相の座に就くや、藩閥政治の首魁となった伊藤博文の考え方が、大隈には理解できない。

 かつて築地梁山泊で、夜が白むまで悲憤慷慨していた伊藤が、今では、かつての大久保以上の独裁者として振る舞っているのだ。

 —わしだけが永遠の書生なのか。

 気づくと、かつての仲間たちも思い思いの道を歩み始めていた。

 副島種臣は天皇の侍講を辞して在野となり、佐野常民は大蔵卿を辞任させられた後、元老院副議長という閑職に就いていた。

 久米邦武は修史事業に没頭し、国史の編纂に力を尽くしていた。

 佐賀藩閥で唯一閣内に残った大木喬任は、大隈に代わって筆頭参議となる。だが内閣の中心を成す伊藤とは、次第に「氷炭相容れざる仲」(大木の書状)となっていく。

 どうも旧佐賀藩士は世渡りがうまくない。妥協と協調を重んじる大隈でさえも、失脚という憂き目に遭っている。根底に『葉隠』が浸透しているので、誰もが安易に妥協できないのだ。

 大隈の世代も、次第に世代交代の波に晒され始めていた。

 それでも在野となった大隈には注目が集まっていた。第二の西郷として軍事革命を起こすのではないかという物騒なものに始まり、外遊に出掛けるのではないか、自由党に合流するのではないかという様々な噂が立ったが、大隈は沈黙を守り、雉子橋の自邸に籠もっていた。


 明治十五年(一八八二)一月三十一日、大隈は小野梓、河野敏鎌、前島密の三人の訪問を受けていた。

「これが新政党の『設立趣意書』の草稿です」

 小野が風呂敷を解き、誇らしげに文書の束を置く。

 前島が驚く。

「昨日、この件は話し合ったばかりではないか。まさか君は、これを一夜で書いたのか」

 前島密は築地梁山泊時代からの大隈の盟友で、政府では近代的郵便制度の確立に寄与してきた。大隈の引きで内務大輔兼駅逓総監に就いていたが、明治十四年の政変で下野した。駅逓総監とは交通と通信を統括する省庁で、後の逓信省に引き継がれていく。

「もちろんです。徹夜はしましたがね」

 小野が銀縁眼鏡の奥にある細い目を光らせる。

 —此奴はただ者ではない。

 土佐出身の小野梓は二十九歳。大隈の下野と同時に、会計検査院一等検査官という要職を辞任するほど大隈に心酔しており、前年には東大出の少壮気鋭の者たちと、鷗渡会という政治グループを作って政党の結成に動き出していた。

 小野の草稿は要約すると以下のようになる。


・王室の尊栄と人民の幸福を両立させる

・内治改良を国権拡張に結び付ける

(内治改良とは藩閥政治の否定で、新たな政治体制で国権を拡張していくこと)

・中央政府の地方自治への干渉を排し、地方自治を自立させる

・選挙権を拡張させる

・列強と対等な関係を築き、通商を振興させる

(貿易を中心に据えた通商国家に日本をしていくこと)


「これはよくできている」

 河野が感心する。

 河野敏鎌も小野と同じ土佐藩出身で三十七歳。江藤新平の知遇を得て司法大丞兼大検事となるも、佐賀戦争で江藤を裁く立場となり、断腸の思いで死刑を宣告する。農商務省設立に伴い初代農商務卿になるが、明治十四年の政変で大隈に同調して下野していた。

 大隈が皆を見回しながら問う。

「皆は、私に新たな政党を作れというのだな」

「われらだけでなく、矢野さん、犬養さん、尾崎さんらも同じ気持ちです」

 小野が、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄といった大隈系官僚の名を出す。彼らは福沢門下の「三田派」でもあり、大隈に近い立場にあった。

「そうか。矢野君、犬養君、尾崎君らも、私の船に乗るというのか」

 若手官僚たちが道行きを共にすると聞き、大隈には感慨深いものがあった。

 矢野文雄は慶應義塾出身で英米の憲法史を研究している。すでに下野後、東洋議政会という政治結社を率いており、私擬憲法まで起草していた。

 犬養毅は官僚として仕事をする傍ら、大隈の下野前から言論活動を活発に行っていた。後に総理大臣になり、五・一五事件で青年将校に射殺されるのは周知の通りである。

 尾崎行雄は逆に言論活動で名を売り、矢野の勧めで大蔵省に務めたが、大隈の失脚に激高し、二カ月で退職していた。すでに東洋議政会に所属し、言論活動に邁進している。尾崎は後に衆議院議員となり、当選回数(二十五回)、議員勤続年数(六十三年)、最高齢議員記録(九十四歳)で日本記録を保持することになる。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

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