内閣の総意ですので、唐突も何もありません」|三軍暴骨(十一)1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。青年期から最晩年まで、「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、令和版大隈像をお楽しみください。

十一


 自由民権運動の盛り上がりに呼応するかのように、明治十三年の初頭から、政府内でも立憲政体への模索が始まっていた。

 参議の山縣有朋が政府に意見書を出したことを契機として、三条と岩倉は各参議にも意見書を出すことを要請した。山縣に続いて井上馨や黒田清隆が意見書を提出したが、彼らの意見書の内容は、欧米諸国の立憲政体の掘り下げが浅く、単に時期尚早と結論付けるものだった。

 明治十三年の十二月には、伊藤も意見書を提出する。ここには立憲政体を肯定はするものの、時期尚早という主張で貫かれていた。

一方、大隈は手の内を早々に晒したくないため、年内に意見書を提出しなかった。

 閣内では、国会開設のための啓蒙活動として新聞を発行しようということになり、大隈の勧めによって、翌明治十四年(一八八一)初頭、福沢が主筆となって「法令公布日誌」と呼ばれる政府刊行の新聞の発行が決まった。

 また後に熱海会議と呼ばれる会議が開かれたのも、この頃だった。この会議は「湯にでもつかりながら立憲政体について語り合おう」という伊藤の呼び掛けに大隈と井上が応えたもので、これを聞きつけた黒田も加わり、二週間ほど湯治を兼ねて議論が戦わされた。これにより緩急の差はあっても、四人の総意として立憲政体への移行が決まった。

 これに安堵した大隈は三月、左大臣の有栖川宮熾仁親王の催促に応えて意見書を提出した。その際、「天皇がご覧になるまで、大臣やほかの参議に見せないように」と釘を刺したが、伊藤が強硬に迫ったため、有栖川宮は伊藤に見せてしまった。

 大隈の意見書は、伊藤の予想をはるかに上回るほど急進的なものだった。この中で大隈はイギリスをモデルとした憲法を即時制定し、二年後に国会を開くと主張していた。

 これに驚いた伊藤は「とても一緒にはやっていけない」となり、井上馨と二人のブレーンになりつつあった井上毅に相談し、密かに大隈の失脚を謀ることにする。

 大隈よりも六歳若い井上毅は旧熊本藩出身の英才で、福沢に対するライバル心からか、大隈と福沢の考えを真っ向から否定した。

 井上毅の主張は以下になる。

「(大隈と福沢の主張する)イギリスの憲政は日本に根付かない。憲政の前提になる政党が日本にはないからだ。今から政党を作っても(成熟するまで)七、八年はかかる。その一方、ドイツ憲法を範とすれば、日本でも立憲政治が可能になる。ドイツ皇帝を天皇になぞらえればよいだけだからだ」

 これに伊藤らは大いに力を得て、岩倉を説得し、水面下で大隈の罷免をのませた。

 こうした動きを大隈は知らない。少なくとも伊藤らが、すぐに大隈を失脚させようなどとは思ってもいなかった。

 伊藤らの動きに微妙な空気を感じた大隈は七月四日、伊藤邸を訪れ、熱海会議で本音を言わず、意見書を密かに天覧に供そうとしたことを謝罪した。これで大隈としては、先手を打ったつもりでいたが、伊藤の決意は変わらない。

 それでも七月三十日から十月十一日まで、明治天皇の東北・北海道巡幸があるので、政争は一時休止となった。この巡幸には、内閣から有栖川宮、黒田、大木、そして大隈らが付き従った。つまりこの間、伊藤らは東京で大隈を失脚させる方策を練る時間が持てたのだ。

 そこに起こったのが、開拓使官有物払い下げ事件だった。

 大隈は西南戦争後の政府財政を立て直すために明治十三年初頭、「工場払下概則」を制定し、官営工場の民間への払い下げを開始した。

 そうした中、開拓使の官有物が、開拓長官の黒田と懇意にしている北海社という会社に格安で払い下げられていることが明るみに出た。この北海社の背後には、五代友厚の関西貿易社があり、黒田と五代の癒着を疑われたのだ。

 新聞各社は政府批判を繰り広げ、それが自由民権運動とも連携し、反政府の大きなうねりが生じつつあった。

 大隈は立場上、黒田を強く非難した。それに呼応するかのように福沢も、門下生を各地に派遣して政府批判を繰り広げる。

 その背後には北海道権益を狙っていた岩崎がおり、福沢の門下生の遊説旅行に資金を出していた。

 こうなれば薩長藩閥が、大隈、福沢、岩崎の三人に疑惑の目を向けるのは必然だった。

 デマはデマを呼び、大隈は福沢や岩崎と結託し、さらに在野の自由民権運動家とも連携し、政府転覆を目論んでいるとまで噂されるようになる。

 この批判の嵐に、開拓長官の黒田は怒り、また同じ薩摩藩閥の西郷従道と川村純義も、大隈のことを「奸物」とまで言い切り、これまで与党だった薩摩藩閥からも、大隈は見放された格好になった。

 しかもこの間、大隈は明治天皇の東北・北海道巡幸に供奉しているので、何ら対応策を講じられない。

 十月十一日、東京に帰還した天皇に、三条、岩倉、伊藤らは「大隈の参議罷免」を求める。だが天皇は、「黒田の態度こそ不可解なり」と突き返した。

 天皇が「大隈罷免」に合意しないことを焦った伊藤は、大隈は福沢と結託し、政府の転覆を企んでいるとまで告げた。

 さすがの天皇もこれには憂慮し、伊藤の案になる「明治二十三年に国会を開設する」という提案と、「大隈罷免」に勅許を出さざるを得なかった。

 前者は詔書となり十月二十九日、国民に向けて発表された。これを待っていたのが、板垣退助ら自由民権運動形で、同日に自由党を結成することになる。


 明治十四年十月十二日の深夜一時、大隈邸の外が騒然となった。まだ起きていた大隈が外を見ると、大型の馬車が二台も連なっている。

 —もう手を打ってきたのか。

 反撃の手立てを講じようとしていた矢先、伊藤に先手を打たれたのだ。

 心配そうに起きてきた妻の綾子と娘の熊子に、奥にいるよう告げた大隈は、カーテンの隙間から外の様子をうかがった。

 —これは逮捕されるな。

 二つの馬車の周囲には、護衛の警察官が多数付き従っている。

 逮捕となれば、裁判で反逆罪とされて死刑は免れ得ない。もちろん冤罪だが、大久保のやり方を信奉する伊藤である。どのような証拠を捏造してくるか分からない。

 福沢一派の反政府遊説活動と、それに資金を出していた岩崎の動きは事実なので、彼らとのつながりから、大隈が白洲に引き出されるのは間違いない。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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