十
岩崎弥太郎の清澄(きよすみ)邸とその池泉回遊式庭園は、言葉に尽くせないほど贅沢なものだった。
全国から集めたと言われる奇岩奇石はもとより、すでに多くの樹齢を重ねてきたに違いない巨木が数多く植えられ、金に糸目をつけずに作庭したという噂も事実だと思える。
——あの岩崎が、これほどになったか。これも時代の成せる業か。
かつて土佐藩最下層の地下浪人として、様々な鬱屈を抱えながらも成り上がることを夢見てきた岩崎が、それを実現したのだ。
だが岩崎が得意満面かと言うと、さほどでもないのが面白い。
隅田川から水を引いているという広大な池の端を歩けるようにした「磯渡り」を二人で行きながら、大隈は感慨に浸っていた。池には多数の鴨や雉鳩らしき鳥が浮かんでおり、二人の姿を認めると、鳴き声を上げながら散っていく。
「まさか岩崎さんが、ここまでになるとは思いませんでしたよ」
「何を仰せか。あなたが商人になっていたら、私の十倍の身代を築いていたでしょう」
「そうかもしれませんな」
二人が声を合わせて笑う。
「でも何の因果か、私は貧乏人のままです」
「それでも国家を動かしている」
「国家ですか。しかし私の一存で決められるものなど何もありません。しかし岩崎さんは、一人で何でも決められる」
「まあ、確かにね」
「磯渡り」から上がった二人は、北風が吹く末枯れの庭園に敷かれた紅葉の絨毯を踏みしめながら、ゆっくりと歩んだ。
「深川めしは、いかがでしたか」
昼飯で出たのは、この辺りの名物の深川めしだった。
「もちろん、うまかったですよ」
「私らも東京の舌になりましたね」
白いものが多くなった口髭を震わせるようにして、岩崎が笑う。
深川めしとは、江戸湾で採れた貝や長葱を醤油で味付けてから炊き込んだもので、西国の混ぜめしに比べると味が濃い。
大隈が話題を転じた。
「いったいここには、どなたが住んでいたのですか」
岩崎が感慨深そうにうなずく。
「元禄時代の豪商の紀伊國屋文左衛門の屋敷があったそうですが、その没落後、下総関宿藩主の久世氏の下屋敷になっていたそうです。何でも三万坪あるとか」
「それを岩崎さんが買い取ったのですか。さすがですね」
「でも、ここは私邸ではありません。私の家は別にあり、ここは賓客の接待と社員のための保養施設としています」
岩崎の本邸は駿河台にある。またかつて上野戦争で佐賀藩のアームストロング砲が火を噴いた本郷台地の東端にある下谷茅町にも、八千五百坪の別邸がある。
「しかしあの時は、よく帝国郵便蒸気船会社に勝ち抜きましたね」
明治七年の台湾出兵の時、岩崎は政府に協力したことで政府御用達の地位を確保し、ライバルだった帝国郵便蒸気船会社を解散に追い込み、その資産を受け継いだ。
「そうでしたね。とても勝てる相手ではありませんでしたが、唯一の隙を突くことができました」
「そして明治十年の西南戦争で、三菱は兵站を支え、躍進の礎を築いたわけですね」
岩崎は三菱汽船会社の所有する三十八隻の船舶すべてを九州への軍事輸送に注ぎ込み、兵員、武器、弾薬、食料の運搬を円滑に行い、政府軍の勝利に貢献した。戦後、三菱汽船会社所有の船舶は六十一隻、三万五千トンに上った。これは日本の全蒸気船総トン数の七十三パーセントになる。その後、岩崎は鉱山開発、製鉄・造船業、金融業、倉庫業、保険業にまで進出し、そのどれもが成功を収め、一大財閥を築くに至った。
「それもこれも、大隈さんのおかげです」
「ははは、やめて下さいよ。私なんて何も貢献していない」
「いや、薩長藩閥の息の掛かった御用商人どもと平等に扱っていただけただけでよかったのです。感謝の言葉もありません」
維新後、土佐藩閥はさほど政府の中枢に食い込めていなかった。板垣は軍人肌で、後藤は政治家に向いておらず、単に薩長土肥の員数合わせで出世してきた感がある。それゆえ岩崎は、大隈と懇意にしていかねばならなかった。
むろん大隈は岩崎から賄賂も接待も受けていない。せいぜい食事を共にした時に払いを任せる程度だ。それでも政府の中枢に大隈がいたからこそ、岩崎が政商として入り込める余地があった。
「ところで、ある噂を聞き込んだのですがね」
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