生きがいについて(神谷美恵子)中編

『生きがいについて』評、中編です。本書には著者・神谷美恵子本人の体験や思いが、他人の体験談として記されています。なぜそのような手法を取る必要があったのか。本書の執筆に費やされた8年間の日記や死後の神谷美恵子研究と照らし合わせながら、彼女がなにを考え本書を綴ったのか、その内面に迫ります。

本書に織り込まれた神谷美恵子の内面


生きがいについて みすず書房

 本書の持つ絶望と希望は表面的にはわかりにくい。ただ、普通に読んでいても、なぜ著者が絶望の深淵を覗き込もうとするのか、その個人的な理由に読者が引かれるのは必然である。編集者もそこが奇妙に思われたので、出版の最終時点で彼女に説明を求めた。それが「おわりに」の付記に描かれている。

 以上が印刷になって再校の段階にはいってから、思いがけない注文がみすず書房から出て来た。いったいなぜ私が生きがいの問題について関心を持つに至ったのか、もっと自分自身について語ってほしい。そのほうが読者にとって親しみやすかろう、という意見である。

 そうして彼女は手短に、当時死病と言われた少女時代の肺結核と、その後大学生のとき「らい病」(ハンセン病)の患者に出会い、医師として彼らのために働きたいと記し、さらにこの本が書かれたころの現状として「らい園で精神科医として働くことは大きな生きがいの一つである」と書いた。

 この付記には二つのことが示されている。一つは、読者が美恵子の個人史に関心を持つことを想定していなかったこと。もう一つはここに書かれた理由が、嘘だとまでは言えないが、巧妙に隠されていることだ。

 この本は、編集者も見抜いたように、絶望から精神への再生に至る過程が、表面的には客観を装って書かれている。だが、実際には美恵子の内面そのものの表出であった。彼女が隠した事柄は、後の神谷美恵子研究で明らかになっている。

 例えば、「5 生きがいをうばい去るもの」の「難病にかかること」では、難病に遭遇した絶望の例としてこう書かれている。

次に将来を共にするはずであった青年に死なれた娘の手記から引いてみよう。
「ガラガラガラ。突然おそろしい音を立てて大地は足もとからくずれ落ち、重い空がその中にぬめりこんだ。私は思わず両手で顔を覆い、道のまん中にへたへたとしゃがみこんだ。底知れぬ闇の中に無限に転落して行く。彼は逝き、それとともに私も今まで生きて来たこの生命を失った。もう決して、決して、人生は私にとっては再びもとのとおりにはかえらないであろう。ああ、これから私はどういう風に、何のために生きて行ったらよいのであろうか。」

 この娘の手記が彼女の日記であることは、すでに神谷美恵子の研究者によって明らかにされている。またこの個所と限らず、本書はあちこちに彼女の肉声が偽装されて織り込まれている。引用が明記されている個所ですら、彼女の内面の表現とも読める。例えば、「8 新しい生きがいの発見」では、生きがいの情熱の変形について中原中也の詩がこう引用されている。

 変形のなかで一ばんよくみられるものは、ある特定の人間への愛がもっと多くのひとへの愛に変わる場合である。
  愛するものは死んだのですから、
  たしかにそれは死んだのですから、

  もはやどうにもならぬのですから
  そのもののために、そのもののために、

  奉仕の気持にならなけぁならない。
  奉仕の気持にならなけぁならない。

       中原中也「春の狂態」より

 中原中也の詩に馴染んだ人なら、この引用が奇妙なものであることに気がつく。「春の狂態」にはこの前にこういう詩文があるからだ。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

 美恵子の脳裏に「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」が響いていたことは明白である。当時の彼女の状態は自殺が懸念されていた。

 「生きがい」を一般化しようとした著者の思いに背くことにはなるが、本書はすべて神谷美恵子という絶望の人の人生を物語っていると言ってよい。そのために2004年に編まれた神谷美恵子コレクションの『生きがいについて』では、8年間にわたる本書執筆から出版までの時期の彼女の日記が合本されている。

 この長期にわたる関連の日記を読むと、彼女は本書を書くことが自身の人生の意味であったと了解し、かつ書くことに苦闘しているようすがうかがえる。1959年12月2日の日記にはこうある。

 ああ、私の心はこの長い年月に感じとったもので一杯で苦しいばかりだ。それを学問と芸術の形ですっかり注ぎ出してしまうまでは死ぬわけにも行かない。ほんとうの仕事はすべてこれからだというふるい立つ気持ちでじっとしていらない様だ。

恋人の死と自身の病気

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ケイクス

この連載について

初回を読む
新しい「古典」を読む

finalvent

「極東ブログ」で知られるブロガーのfinalventさん。時事問題や、料理のレシピなどジャンルを問わない様々な記事を書かれているが、その中でもとりわけ人気が高いのが書評記事。本連載は、時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード