八
江戸の昔から、三田は大名屋敷の多い閑静な住宅地だった。明治になってからは富裕層の邸宅や各国の公使館が置かれるようになったが、静かなのは江戸の頃と何ら変わらない。
その三田の地にある福沢邸を訪れると、万余はいると思われる蟬の声を縫うようにして、学生たちに講義する福沢の声が聞こえていた。英語を教えているのか、時折、福沢の後を唱和する学生たちの声も聞こえる。
応接室に通された大隈は、そこから見える緑あふれる庭を見つめつつ、福沢を待っていた。
明治十二年(一八七九)も、すでに七月になっていた。大隈は福沢から「一度は、わが学び舎においでになりませんか」という誘いを受け、三田二丁目にある慶應義塾を訪問した。
「お待たせしました」
講義を終えたばかりの福沢が、書物を抱えたまま入ってきた。
「いえいえ、思ったより早く着いたので、待たせていただいただけです」
「いずれにせよ、多忙な大隈さんを待たせた私が悪い。講義の時間を変えればよかった」
「お気になさらず」
二人が握手を交わす。初対面の時から数えて五、六回は会っているので、二人の間には親密な雰囲気が醸し出されていた。
「ここは、よき学び舎ですね」
「はい。私もたいへん気に入っています」
福沢が満足そうに学舎の庭を見回す。
福沢の興した慶應義塾は、三田にあった旧島原藩中屋敷を気に入っていた福沢が、岩倉の仲介で東京府から払い下げてもらったもので、明治四年には「帳合之法(簿記)」の講義を始めていた。その後、講義内容は様々な分野に広がっていたが、ここ最近は、政治経済についてのものが主流になりつつあった。
——やはり大事なのは教育だ。
あらためてその思いを抱いたが、多忙を極める大隈にとって、それが分かっていながらも、何もできないのが現実だった。
「福沢さんは、かねてより教育を重んじてきた。その理想が、この学び舎で実現したのですね」
「実現したとは、言い難いものがあります。まだまだ道半ばですよ」
その言葉は大隈に向けられたものではない。だが大隈には、福沢の願いをかなえられなかったという無念の思いがあった。
「あの件では、お役に立てず申し訳なかった」
昨年、福沢は慶應義塾の運営資金として、無利息で年二十五万円を十年間、政府より借用したいという要望を出した。実はここ数年、秩禄処分などで士族の生活が困窮し、士族の子弟の入学が激減し、慶應義塾は経営危機に瀕していたからだ。
福沢は所轄の省庁にあたる文部卿の西郷従道に申し入れたのだが、文部省ではどうにもならない。この依頼を小西郷から受けた参議兼大蔵卿の大隈は、利子付きに変更させて閣議に諮るが、伊藤や井上は「財政引き締め」を理由に却下した。
その背景として西南戦争の際、戦費調達の名目で大量に発行した不換紙幣の影響でインフレが進み、それを大隈が終息できていないという原因があった。
大隈にしてみれば「勝手に戦争を始めておいて、尻拭いがうまくできないなどと批判されてはたまらん」といったところだが、インフレがじわじわと高進しているのは、事実なので仕方がない。
それでも大隈は「教育の振興こそ国家の基盤」と主張するが、伊藤らは聞く耳を持たない。そのため大隈は政府資金の貸し出しをあきらめ、福沢に横浜正金銀行の設立を手伝わせ、また福沢を通じて岩崎弥太郎に高島炭鉱の買収を勧めさせるなどして、福沢の影響力を強めていった。こうしたことへの礼金や景気の回復もあり、慶應義塾の経営問題は解決されていく。
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