五
清正が去ってからも、二日間にわたり雨は降り続いた。だが小降りであったのと、三日目にはやんだことで、溢れ水は小規模なもので済んだ。
その間、大木兼能やその配下と共に、溢れ水が起こった箇所を見て回った藤九郎は、高瀬に作られた普請小屋に入り、協議を重ねていた。
「高瀬の地は作物の集積地で、ここで集められた米や穀物は、菊池川の水運を利用して大坂へと廻漕される」
兼能が藤九郎たちに高瀬の重要性を説明する。
「ところが雨が続くと、高瀬は低地なので水が集まってしまう。それゆえ、まずは高瀬に水が集まらぬようにしたい」
藤九郎が遠慮がちに言う。
「河畔を見て回ったところ、高瀬の下流には屈曲が多く、水が円滑に有明海に流れ込まないところに原因があるのではないでしょうか」
「そなたもそう思うか。源内はどう見る」
「仰せの通り。しかも河口には土砂がたまり、川水の流出を妨げております。まずは河口の川浚え(浚渫)から掛かるべきかと」
川浚えとは水底の土砂を浚い、船舶が安全に航行できるようにすることだが、この場合、菊池川河口の水勢を衰えさせずに有明海に注がせることができるか否かが、成否の分かれ目になる。
「なるほど。佐之助はどうだ」
「高瀬の地の対岸から、木葉川が菊池川に流れ込んでいるため、そこから一気に増水します。まずは木葉川の流勢を和らげる手立てを講じるべきかと。例えば流路を変え、塘(遊水池)を設けるといった策を講じるべきではないでしょうか」
「二人の申すことは尤もだ。われらもそれらを吟味してきた。だが有明海は流れが速く、川浚えは容易でない。また木葉川は、さほど大きな川ではない。その水勢を押しとどめることが、果たして高瀬の溢れ水を防ぐことにつながるかどうかは分からん。また流路を変えるとしても、背後に山や丘が迫っている地なので、さほど大きな改変はできない」
この時代の浚渫は、長い竹竿の先に葦の茎で編まれた箕の付いた鋤簾を使い、土をすくって小舟に載せていくという気の遠くなるような作業になる。しかも海が荒れれば小舟は出せず、無理に出しても、小舟の錨だと流れに負けて走錨状態になってしまう。そうなれば作業ははかどらない。
その一方、菊池川に流れ込む木葉川の流路を変えることは、その背後が田原山などの丘陵地帯になっているので、容易には行えない。
二人の言っていることは妥当だが、すでに兼能たちが吟味を重ねたことだった。
「もっと確実で、なおかつ大本の解決につながることは考えつかないか。藤九郎、どうだ」
「恐れながら」と言いつつ、藤九郎が問う。
「米や作物の積出港を、高瀬から別の場所に移したらいかがでしょうか」
「それはよい考えだが、積出港を移すとなると、三池街道を付け替えねばならんぞ」
福岡・久留米方面から隈本方面に向かう場合、南関から石貫を経て高瀬まで南下し、菊池川を渡って木葉に出てから大きく南に迂回し、さらに南東に方向を変え、ようやく隈本に向かうことになる。これを地元の人々は、三池街道と呼んでいた。
「街道を付け替えるのはたいへんですね」
「うむ。街道の付け替えは容易でない。しかも高瀬のある菊池川右岸ならまだしも、左岸は山や丘陵が多く、渡し場のこともあるので、付け替えは難しい」
「さようなことなら、致し方ありません」
積出港を高瀬から移せないとなると、また別の方法を考えねばならない。
「で、どうする」
「かような大事を、すぐに申し上げることはできません。少し時間をいただけないでしょうか」
「尤もなことだ。では明日、聞くとしよう」
「明日、と仰せか」
「そうだ。われらは豊臣家中だ。関白殿下は何よりも迅速さを好む。ぐずぐずしている者は淘汰されるだけだ」
それで、この日の談議はお開きとなった。
──こいつは一筋縄ではいかぬな。
大きなため息をつくと、藤九郎は自ら描いた絵図面を丸めて抱え、己の小屋へと向かった。
小屋に戻った藤九郎は、隈本から運ばせた行李を開けると、父の残してくれた秘伝書を引っ張り出した。秘伝書は十五冊の分冊になっており、五月雨式に極意が書いてあるので、該当箇所を探し出すのは容易でない。
秘伝書をめくっていると、外から大声が聞こえた。
「何だ、こんなところにおったのか」
垂れ蓆を引き上げて、一人の男が入ってきた。
「これは嘉兵衛殿。いかがいたしましたか」
「別件で使者を命じられ、その帰途に寄ってみたのだ」
「そうでしたか。どうぞ、お入り下さい」
藤九郎の宿所は急普請の掘っ立て小屋同然なので、男二人が座ると、それだけで空間がなくなる。
「早速、やっておるな」
嘉兵衛が手元にあった秘伝書の一つを拾う。
「水の機嫌を損なうなかれ。水を生かして水を制せか。なるほどな」
「あっ、そこに書いてありましたか」
藤九郎は嘉兵衛の手にしていた秘伝書を取り戻すと、該当箇所を凝視した。
「そんなに手荒く扱うと、紙が傷むぞ」
「ほとんど頭に入っておりますので、ご心配なく」
「そいつはすごいな。では、いかなる理由で広げている」
「頭に入っているものは、目につきませんから」
「ははあ、目で文字を追い、発想を得ようというのだな」
嘉兵衛が膝を打って感心する。
「それよりも、こいつの方が利くぞ」
嘉兵衛が徳利を置く。
「課せられている厄介事を明日までに片付けねばならぬのです。その埒が明くまでは飲めません」
「ほほう、どのような厄介事だ」
「一言では申し上げにくいことです」
「夜は長い。じっくりと聞こう」
──致し方ない。
唯一と言っていい友を不快にさせるわけにはいかない。藤九郎は絵地図を開き、状況を懇切丁寧に説明した。だが治水を専らとしている者でないと、こうした難事の解決策など浮かぶはずがない。
「なるほどな。確かに厄介事だ」
「分かりますか」
「わしも馬鹿ではない。趣意は分かる」
「では、何か妙案でも浮かびましたか」
「浮かばぬな」
藤九郎の面に落胆の色が広がったのか、嘉兵衛が元気付けるように言う。
「まあ、そんなにがっかりするな。こうした厄介事は、じっくり考えるから、かえってよき策が浮かばぬのだ。まずは物事を高所から考えてみろ」
「高所からと──」
「そうだ。まず厄介事の本質は、積出港の高瀬があそこにあるからだろう」
「そうですが」
「では、積出港を移せばよい」
「それが駄目なのです」
藤九郎がその理由を説明する。
「高瀬が動かせないとなると、菊池川を動かすしかないだろうな」
「えっ」
藤九郎には、嘉兵衛の言っていることがよく分からない。
「よいか。此度の件は、菊池川が高瀬を通っていることで起こっている。高瀬が動かせぬなら、菊池川を動かせばよい」
「ちょっと待って下さい」
藤九郎の頭の中で何かが閃いた。だが、まだ曖昧模糊としていて焦点を結ばない。
「菊池川の付け替えはできても、街道は変えられない。そうだな」
「そうです」
藤九郎は、父の残した秘伝書を次から次へとめくってみた。
──これだ。
秘伝書の中から見つけたある箇所に、「溢れ水を防ぐには、河川を付け替えるに越したことはない」と書かれていた。
「そうか。高瀬を通過した後に菊池川を付け替えればよいのですね」
「その通りだ。だが、それでもうまく行くかどうかは分からん」
「そうでしたね」
治水に関しては、それぞれの置かれた状況に応じて、最適な解決策を見つけていかねばならない。つまり定法などなきに等しいのだ。
二人は侃々諤々の議論を重ねた。気づくと一番鶏が鳴き、空が白み始めていた。
「そうだ。藤九郎殿、川筋は一本でなければならぬということはない」
「あっ、よきところに目を付けましたな」
「簡単なことだ。高瀬は移せぬ。高瀬から菊池川は離せぬとなれば、高瀬の下流の流れを円滑にするしかあるまい」
「そうか。高瀬から川を二本にすればよいのですね」
「そうだ。三本でもよいが、まあ、二本で十分だろう」
「つまり元の流れを残しつつ、新たな流路を掘ればよいのですね」
「そうだ」
「これで間違いなく埒が明けられます」
藤九郎は心地よい疲労感に酔っていた。
「藤九郎殿、これで万事うまくいく。自分を信じるのだぞ」
「そのお言葉、胸に刻んでおきます」
「では、行く」
「休んでいかないのですか」
「隈本まで馬を飛ばせば半刻(約一時間)ほどだ。帰ってから寝る」
そう言い残すと、嘉兵衛は風のように去っていった。
──ありがとうございました。
その後ろ姿に一礼した藤九郎は、己の考えを絵地図にすべく、再び仮小屋に戻った。
その日の午後、藤九郎は兼能らを前にして、自らの考えを述べた。
「高瀬から伊倉を経て横島と久島の間を通り、有明海に注いでいた菊池川の流路を、高瀬から西に曲げ、大浜と小浜の間から有明海に注ぐように付け替えるのです。ただし元の流路も残すことで、水流を分散させます」
それを聞いていた兼能の顔色が変わる。
「それは妙案だ。早速、殿に申し上げよう」
そう言い残すと、兼能は藤九郎を引き連れて隈本城に向かった。
清正を前にして、藤九郎は堂々と持論を述べた。もう、どうとでもなれという心境だった。
話を聞き終わった後、清正は一言、「よきにはからえ」と言った。
その言葉を聞いた藤九郎は、喜びよりも安堵からくずおれそうになった。
だが翌日から始まる戦いは、容易なものではなかった。
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