二
加藤家への仕官が決まった藤九郎は支度金をもらい、第二の故郷となった甲賀へと戻っていった。
小作として猫の額のような土地を耕していた母の琴は、藤九郎の話を聞き、涙を流して喜んでくれた。だが大坂に集まるのは六月二十日なので、一月もない。仕官が決まった者たちは、この間に土地や財産を処分して船に乗り込むことになる。
ところが母は、「甲賀には世話になった人もいるし、そんな急には移れない」と言う。
母は四十の坂をとうに超えており、新たな土地で新たな生活を営むことが億劫になっているのだ。
しかも遺骨のない父の墓が近くの寺にあり、離れ難いに違いない。そうした気持ちを察した藤九郎は、単身で肥後に向かう決意をした。
家族水入らずの時を過ごした後、藤九郎は「出頭して必ず迎えに来る」と言い残し、甲賀を後にした。
参集場所に指定された大坂住吉津は、加藤家への仕官が決定した者たちでごった返していた。
帳簿係の役人に到着を告げると、乗るべき船を指示してくれた。
沖に停泊しているその船は、見たこともないような大きさだ。
──安宅船を借りたのだな。
清正は秀吉から軍船を借り受けたのだろう。それだけ「お国入り」は急を要するのだ。
指定された安宅船へは平底の渡し舟によって運ばれる。渡し船が安宅船に近づくに従い、その異様な姿が極立ってくる。
──この巨大船も人が造ったのだ。
それを思うと、何かを造りたいという気持ちが、いっそう強くなる。
──二十万石、いや三十万石はあるかもしれない。
船は石高でその大きさを示す。これは船の積載量から算出するもので、一石あたり十立方尺(約二百七十八リットル)になるが、もちろん万石単位の船は概算となる。
安宅船から降ろされた網状の縄梯子を摑み、次から次へと人が安宅船に乗り移っていく。藤九郎もそれに続く。
ようやく船上に上がれたが、そこも人でごった返していた。
「早く並べ!」
物頭らしき男が皆を並ばせ、名を名乗らせていく。帳簿と照合しているのだ。
「よし、出帆だ!」
人を満載して近づいてくる渡し舟がまだ二、三艘あるにもかかわらず、物頭は出帆を命じた。
それを誰かが教えても、物頭らしき男は「構わないから船を出せ!」と喚いている。
「待たれよ」
その時、若い男が物頭を制した。
「いまだ舟が寄せてきております。ということは、陸で『この船に乗れ』と指示されておるはず」
その武士は若いが、落ち着いた口ぶりだ。
「知ったことか!」
「いや、しかし──」
物頭がめんどうくさそうに言う。
「船というのはな、人が多く乗れば覆りやすくなる」
「では、かの者たちはどの船に乗るのですか」
「さて、どの船かな」
物頭は高らかに笑うと続けた。
「人が少なければ、一人あたりの食いもんも増えるってもんだ」
その言葉に、足軽たちがどっと沸く。
「とは仰せになられても、仕官の決まった者たちを、すぐに肥後まで連れていかねば、殿はお困りになるのではありませんか」
「そんなことは、どうにでも言い逃れができる」
「どのように」
「手違いが生じたとでも言えばよい」
笑いながらその場を去ろうとする物頭の背に、男の声が掛かる。
「お待ち下さい」
「まだ用があるのか」
物頭の顔色が変わる。
「われわれは武士です。無礼ではありませんか」
物頭が若者の前に立つ。
「何が武士だ。わしは足軽だが、殿様が百二十石取りの頃から仕えている。いわば殿様の覚えめでたき者だ。わしに逆らえば、たとえ武士だろうと──」
そこまで言った時、物頭の体が宙を舞った。
目にも留まらぬ速さで背後に回った若者は、物頭の腕を捻じ曲げ、両足を払ったのだ。
「やりやがったな!」
足軽たちが若者を取り囲む。
「武士に喧嘩を売るのですか」
余裕の笑みを浮かべながら、若者が物頭を解放する。
「海に落としちまえ!」
ようやく立ち上がった物頭が喚く。
若者は見るからに優男で、数人掛かりなら、海に投げ込まれるのは間違いない。
「致し方ありませんな」
若者が身構える。
──このままでは、あの若者は本当に海に投げ込まれる。
次の瞬間、図らずも声が出た。
「す、す、助太刀いたす!」
「何だ、おめえは」
いかにも吏僚然とした藤九郎の体つきを見て、足軽たちから笑いが漏れる。
だが、やりとりを聞いていた武士たちの間から、次々と「わしも助太刀いたす」「わしもだ!」という声が相次いだ。
足軽たちはとたんに劣勢となったが、先ほどの物頭は、それでも虚勢を張った。
「殿に言い付けてやる。名を名乗れ」
「私の名ですか」
先ほどの若者が平然と問い返す。
「そうだ。お前の名だ」
「これはありがたい。これほど早く殿に名を覚えていただく機会があるとは思わなかった」
若者がおどけるように言うと、今度は武士たちが沸いた。
「四の五の言わずに名乗りやがれ!」
「私の名は──」
若者は胸を張ると言った。
「佐屋嘉兵衛と申します」
──さ、や、か、へ、え、という名か。
遅れじと藤九郎が名乗ろうとする。
「わしの名は──」
「助太刀のお方は名乗らずとも結構」
すかさず若者が制する。第三者の藤九郎に後難が降り掛かるのを避けたのか、自分の名だけ清正に伝えたいのかは分からない。
「覚えてやがれ」
その場から去ろうとする物頭を若者が制する。
「お待ちあれ。船を止めるのを、お忘れではありませんか」
「けっ」と吐き捨てつつ、物頭は「船を止めろ!」と大声で指示を出した。
「それで結構。此度のことは不問に付しましょう」
「不問だと。こっちの台詞だ!」
物頭は足軽たちを引き連れ、悪態をつきながら行ってしまった。
藤九郎のような下級武士は、足軽たちからも見下されている。とくに加藤家では、清正が荒ぶる男たちを好むので、足軽たちが大きな顔をしている。
安宅船が止まると、追いすがるようにして付いてきていた渡し舟が船縁に付けられ、新たな者たちが縄梯子を上ってきた。
それにより、安宅船は立錐の余地もないほどになった。
その人ごみの中を、「佐屋嘉兵衛」と名乗った若者は去っていこうとした。
藤九郎は、どうしてもその若者と話がしたかった。
「佐屋殿、お待ちあれ」
「先ほど、助太刀を申し出た方ですね。礼を言うのを忘れていました」
佐屋嘉兵衛と名乗った若者が、涼やかな笑みを浮かべる。
「いえ、礼を言っていただくために、声を掛けたのではありません」
「では、何用ですか」
「用というわけではありませんが、これからは同じ家中です。それゆえ挨拶だけでもと思い──」
「そうですね。こちらこそご無礼仕りました。でも私は、大した男ではありませんよ」
「いや、不条理なことに即座に物申せる方は少ない」
「いや、あれはたまたまです」
嘉兵衛が振り向くと問うた。
「そうだ。せっかくだから、お名前だけでも教えて下さい」
「木村藤九郎と申します。以後、お見知りおきを」
「こちらこそ」
嘉兵衛は行ってしまったが、藤九郎は今後も嘉兵衛とかかわりを持つことになると感じた。
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