副島さんは、私にこれを見せたかったのですね」|三軍暴骨(六)1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。


 紀尾井坂事件で惨殺された大久保が就いていた内務卿の座には、伊藤が就いた。これまで伊藤は、大久保が外遊した折には内務卿代理を仰せつかっており、また西南戦争で大久保の片腕として辣腕を振るったこともあり、妥当な人事だった。

 また大久保が兼務していた参議の座には、伊藤の推しで文部卿と兼任で西郷従道が就いた(明治十一年十二月に陸軍卿に転出)。さらに井上馨も参議兼工部卿として政府に復帰した。これにより薩長藩閥色が以前にも増して濃くなり、大隈の孤立感は深まった。

 まさに「薩長でなければ人に非ず」と言わんばかりの人事に、大隈ならずとも、国民の不満は高まっていた。

 だが大隈は政府内の権力争いに明け暮れているわけにはいかない。西南戦争の膨大な戦費支出の後始末に追われていたからだ。


 男は以前にも増して長くなった美髯を胸まで垂らし、鋭い眼光で大隈をにらんでいた。だが自慢の美髯には白いものが多く交じり、男がそれなりの年輪を刻んでいるのは明らかだった。

 明治十一年十一月、横浜は神奈川宿の料亭「田中屋」で、大隈は副島種臣と一献傾けていた。

 大隈が「久しぶりに会いたい」と伝えると、副島は「それなら神奈川宿の田中屋にしよう」と言ってきた。

 —副島さんも五十一歳か。官途に就くかどうかはぎりぎりだな。

 大隈は、副島を参議の座に復帰させようとしていた。維新三傑が鬼籍に入り、下野中の実績ある大物を政府に呼び戻そうというのが表向きの理由だが、実際は与党を増やし、伊藤・井上の政府主流派に対抗していきたいという思惑がある。

 元々、副島は口数が少なく、話が弾まない。それでも若い頃は、酒が入れば陽気になることもあったが、年を取るに従い、自分の中に引き籠もる傾向が強くなった気がする。

「それで、清国漫遊の旅はいかがでしたか」

 副島が好みそうな話題に水を向けてみた。

「ああ、よかったよ」

 だが警戒心を解いていないのか、副島は寡黙だった。

 —以前より扱いにくくなったな。

 大隈は心中、ため息を漏らした。

 明治六年の政変で下野した副島は、その後、官途に就かず、政府から依頼された修史事業によって糊口を凌いでいた。

 明治八年(一八七五)十月、副島は外務省事務総裁職に任じられるが、それもすぐに辞め、何を思ったか明治九年九月から清国漫遊の旅に出た。前回の清国行きは外務卿としての公的な立場だったが、今回は純然たる私的旅行だ。しかも霞が関の屋敷を売り払い、旅行費を捻出した上での旅立ちだった。

 上海から蘇州と杭州を経て北京に至り、かつて交渉相手だった李鴻章と旧交を温めた副島は、李鴻章から清国のために働かないかと持ち掛けられた。

 こうした外交顧問は「お雇い外国人」として日本も雇っていたが、李鴻章はかつての交渉相手の副島の手腕を高く評価していたのだ。だが副島はこれを断り、旅を続ける。

 天津を経て上海に向かっている時、西南戦争の一報を聞いた副島は、明治十年九月に一時帰国した。だが時すでに遅く、副島にできることはなかった。

 致し方なく副島は十二月、再び上海を目指した。そして明治十一年の九月、ようやく帰国し、副島の清国漫遊の旅は終わった。

「副島さんが不在の間に、木戸さん、西郷さん、大久保さんは亡くなりました」

「君は、僕の責任とでも言うのか」

「そんなことは言っていません」

「では、この国の混乱から、僕が逃げていたとでも言いたいのか」

 副島は相変わらず思い込みが激しい。

「そうではありません。ご旅行の前と後では、情勢が一変したと言いたいのです」

「つまり頭上の漬物石が、すべて取り除けられたと言うのだな」

 珍しい副島の戯れ言に、大隈は笑みを浮かべた。

 西郷は別としても、大久保と木戸がいる限り、政府の最終決定権は二人が握り、大隈も副島も吏僚同然の仕事をさせられてきた。三人が死したことは不幸だが、これまで忍従してきた二人にとって、いよいよ思った通りの政治ができる好機でもある。

「漬物石はよかったな。まあ、そういうことです。いよいよ漬物樽の蓋が開いたのです」

「それで君は、僕に再び参議に返り咲かないかと言いたいのだな」

 副島が鋭い眼光で大隈を見つめる。

「はい。この国のために、副島さんにもう一働きしていただきたいのです」

「君のためではないのか」

「副島さん」

 大隈がため息をつく。

「わだかまりを持つのは、もうやめませんか」

 副島は酒を一気に飲み干すと立ち上がり、窓を開け放った。

「八太郎、これが見えるか」

 何十年かぶりに、副島から幼名で呼ばれた。副島としては精いっぱい親近感を込めたのだろう。

 —つまり、もうわだかまりは捨てたということか。

 大隈も窓際まで行く。

 夕闇が迫る神奈川港には、いまだ船の行き来はあり、何艘もの船が桟橋で荷の積み下ろしをしている。港の賑わいは、日本の経済が活発になりつつあるという証拠だ。

「ここからは、神奈川港が一望の下に見渡せますね」

「そうだ。その向こうに広がるのが横浜港だ。僕はここから船出して清国に渡った」

 まさに横浜は、この時代の日本の玄関口だった。

「副島さんは、私にこれを見せたかったのですね」

 副島が田中屋を指定してきた理由が、これで分かった。

 それには答えず、副島が言った。

「八太郎、世界は広い」

「そのようですな」

 大隈は四十歳になる今日まで、一度として日本を出たことがない。

「君はどうして外遊しない」

「別に意地を張っているわけではありません。たまたま、その機会がなかっただけです」

 それは本音だった。現に大隈は明治四年、条約改正の下交渉をすべく、自ら使節団を編成して外遊しようとした。

 —だが大隈使節団構想は、わしに功を取らせたくない大久保さんや木戸さんによってつぶされた。

 しかも大隈は、岩倉使節団の一員にさえ加えられなかったのだ。

 今となってはどうでもよいことだが、当時の大隈は残念でならなかった。

「八太郎、いつか外遊してこい。行かないと見えてこないこともある」

「そうですね」

 大隈が生返事をする。

「八太郎、君は賢い。だから洋行などしなくても、たいていのことは分かると思っているのだろう。だがそれは違う」

「副島さんは、清国の何に魅力を感じたのですか」

「行き先など、どこでもよかった」

 副島の口から意外な言葉が漏れた。

「どういうことです」

「もはや政治の世界に疲れたのだ」

 —さもありなん。

 副島は生真面目な学者タイプの男だった。政治的駆け引きなど一切できず、すべては真っ正直に持論を述べるだけだった。

 —それゆえ大西郷にも愛されたのだ。

 西郷隆盛は城山で死ぬ三日前、岩崎谷の洞窟に岡部という兵を呼び、「ここから脱出を図り、副島に会ってこう告げよ」と命じた。

「慎みて死なぬ工夫をしろ」

 兵士は脱出に成功し、その言葉を副島に伝えた。

「確かに副島さんは、政治家に向いていない」

「ははは、僕のように愚直な男に政治家はできぬと思っているのだろう」

「はい。しかしそこがいいのです。現に西郷さんは、副島さんのことが好きだった」

「ああ、大南洲は、僕の愚直を愛してくれた」

「逆に私のことは嫌っていた」

「残念ながら、その通りだ」

 二人が声を合わせて笑う。

「その大西郷も、すでに冥府へと旅立ちました。その遺言の『慎みて死なぬようにしろ』という言葉を、副島さんはどう解釈するのですか」

「おそらく政界に復帰すれば、江藤のように死ぬかもしれないと言いたかったのだろう。大久保さんに敵対した者は、ことごとく殺されるか排斥されてきたからな」

 当初、副島と大久保の関係は良好だった。だが副島は大久保が嫌う征韓派に与し、明治六年の政変で下野した。その後、愛国公党結成時の中心人物となったことで、大久保との対立は決定的になった。

「つまり西郷さんは、副島さんが政界に復帰すればどうなるか分からないと伝えたかったんですね」

「おそらくな。大久保さんが生き続ける前提でいたのだろう」

「でも副島さんが隠居同然となることは、この国にとって大きな損失です」

「大隈よ、僕は君のような天性の政治家ではない。どこの田舎にもいるような一介の村夫士にすぎない」

「何を言うんです。副島さんは政治家には向いていないとしても、外交官として一流だ。かつて清国との交渉でも相手の信頼を勝ち取り—」

「まあ、聞け」

 副島が大隈を制する。

「僕は己を知るようになった。これまでは、君らと同じように政治家となるのが当然だと思ってきた。だがな、元々わが家は学者の家だ。兄上もそうだった」

 副島の兄の枝吉神陽は、佐賀藩の尊皇派、すなわち義祭同盟の思想的リーダーだった。

「では、これからどうするのです」

「仕事はせねばならん。清国漫遊で、これまでの蓄財をすべて使い果たしたからな。家族にも迷惑を掛けた。だが政府の中枢に復帰するつもりはない」

 子供たちは自立していたからいいようなものの、豪邸を売り払ったことで、副島と妻は借家住まいになっていた。

「惜しいことです」

「僕は不器用な男だ。そんな生き方しかできない。分かってくれ」

「分かりました。では、政府内で副島さんに適した仕事を斡旋させて下さい」

「そうしてくれるか。すまんな」

 副島が手を伸ばしてきた。

「副島さん、たとえ立場を違えようと、この国をよくしていくという一点において、われらはずっと同志です」

「その通りだ」

 二人は固い握手を交わした。


 明治十二年四月、副島は宮内省御用掛一等侍講兼侍講局総裁という長い役職を拝命した。

 大隈が副島と会い、「侍講でどうか」と問うと、副島は「聖上(天皇)よりの御直命(おじきめい)であれば、門番なりとも厭わないが、その取り扱いが故木戸(孝允)に及ばないということでは、大臣方が礼儀をわきまえていないことだ」と、生来の誇り高さを表した。

 それで大隈が奔走し、かつての木戸と同じ一等官で四千円(現代価値で約一千五百万)という破格の年俸で、ようやく納得した。

 副島は大学・中庸・尚書などを天皇に進講したが、時局に憤慨し、政府批判も遠慮なく行ったので、参議の一部からは「辞めさせろ」という声まで上がった。それでも大隈がなだめすかして、明治十九年(一八八六)の侍講制廃止まで進講を続けることになる。

 その後、興亜会というアジア研究の組織を作って活発に活動した副島は、六十五歳となる明治二十五年(一八九二)、松方正義内閣の内大臣に就任し、政治の表舞台に復帰する。だが次官と対立し、二カ月余で辞任する。

 年を取るほどに副島は頑迷固陋になり、しまいには意思疎通もままならなくなったという。それでも内大臣辞任後、天皇の最高諮問機関の枢密顧問官となり、明治三十八年(一九〇五)、満年齢で七十六歳の天寿を全うすることになる。

<次回は11月24日(火)更新です>

コルク

この連載について

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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