「私は行幸でも御立寄でも構いません。天皇が拙宅に立ち寄っていただけるなど、望外の喜びでした」
「それはよかった。で、今日来たのはそれだけではないだろう」
「ははは、さすが大久保さんだ」
大隈は鞄から書類を出すと、大久保の前に置いた。
「西南戦争の総経費は四千百五十七万円。この額は明治十年の経常歳出の九割強に当たる額です。間接費を加えると、もっと大きなものになります」
「聞いている。四千五百万円余だな」
「その通りです。それゆえその対策として、第十五銀行を創設して千五百万円借り入れ、さらに紙幣を二千七百万円増刷しました」
「たいしたものだな」
大久保が他人事のように苦笑する。
「ただし、従来の政府紙幣の発行高は約九千四百万円ですから、此度の紙幣増刷は異常な額に上っています」
大久保が、パイプの縁をトントンと机に叩きながら問う。
「それで世間は、ひどいインフレに見舞われているというのだな」
「はい。物価は上昇し、紙幣価値は低落しています。ただでさえ輸入超過から正貨が流出し、銀価格が騰貴していたのです。これでは国家の財政が破綻します」
「それは分かっている。で、インフレを抑えるための方策を考えてきているんだろうな」
「もちろんです。地租の再査定による税収増、備荒貯蓄(凶作・飢饉対策のための政府貯蓄)の整備、紙幣償却の増額、対外支払い(外国人雇用費や海外出張費等)の節減などにより、日本国の貨幣の信用を高め、民心の安定を図ることからやらねばなりません」
「つまり君はインフレと物価騰貴の原因は、西南戦争による政府紙幣の過剰発行だけではなく、貿易収支にあると言うのだな」
「もはや西南戦争は終わりました。それをとやかく言っても始まりません。今は貿易収支の改善から手をつけないと、たいへんなことになります」
大久保は立ち上がると、窓際まで行ってパイプをふかした。何事か考える時の癖だ。
「では、貿易収支を改善するためには何をしたらよい」
「まず道路と港湾の整備、運輸量増大を図るための業者への便益の供与、農工商産業の振興策、農業生産性の増大を図るための研究開発、そして輸出奨励策などが挙げられます」
運輸量増大を図るための業者への便益の供与は、岩崎率いる三菱汽船を念頭に置いていた。これが大隈と岩崎の癒着を噂される原因となるが、大隈は裏金を一切もらっていないので堂々たるものだった。
「そうか。どれも迂遠で即効性があるとは言えんが、いつかは取り組まねばならんことだな」
「そうです。何をどのようにやっていくかは、あらためて考えておきます」
これで大筋の合意が取れたので、大隈はほっとした。
「どれも荒療治だが、やらねば国が破綻する。それにしてもさすが君だ。これからも頼りにしている」
「ありがとうございます」
大隈が「失礼します」と言って立ち上がりかけたが、大久保はまだ話したいようだ。
大久保がしみじみとした顔で言う。
「私はもう四十七歳だ。そろそろ後のことも考えておかねばならない」
「まだ早いのでは」
「いや、人には何があるか分からない。もしも私が病魔に倒れたら、後事は君と伊藤君に託したい」
「そう言っていただけるのはうれしいですが、伊藤君は私を邪魔な存在だと思っていますよ」
「だろうな」と言って、大久保が苦笑いを浮かべる。
「そこは伊藤君によく言い含めておく。君も喧嘩腰にならず、協力体制を築いてくれ」
「分かりました。もちろん大久保さんがいる限り、われらの間に確執など生まれません」
「そうだな」と言いつつ大久保が続ける。
「明治維新から三十年で国家の基盤が固まると、私は思っている。つまり——」
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