西郷、もうたいていにせんか」|三軍暴骨(五) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。


 案に相違して薩軍は熊本城の攻略に手間取っていた。薩軍としては西郷の威徳と薩軍の威容により、戦わずして熊本鎮台を降せると思っていたのだろう。よしんば戦うとしても、容易に落とせると踏んでいたに違いない。だが鎮台軍は熊本城に拠って激しい抵抗を示した。

 そこに政府軍が福岡に上陸したという一報が届き、薩軍主力は北方の田原坂へと移動していく。薩軍は、大要害の田原坂で政府軍を防ぐという戦術に転換せざるを得なくなったのだ。

 そして双方は、田原坂で死力を尽くして戦うことになる。この戦いは西南戦争の白眉と言えるものだったが、さしもの薩軍も最後には力負けし、撤退を余儀なくされた

 田原坂攻防戦での政府軍の死傷者は、十七日間の合計で二千四百一。うち死者は千六百余に達した。これに対して薩軍は死傷者三千余と推定される。日本戦史上、一つの戦場で、これだけの人的損害を出した戦いはほかにない。

 いよいよ西南戦争も最期の局面を迎える。


 各地で敗れて衰勢に陥った薩軍は、鹿児島に戻って城山に籠城した。しかし九月二十四日、政府軍の総攻撃に屈し、西郷も自害する。

 西郷隆盛享年四十九。幕末の巨星が落ちた時、武士の時代も幕を閉じた。

 かくして日本最後の内戦となる西南戦争は終わった。そして後に残されたのは多大な債務だった。

 この内戦に大隈はほとんど関与しなかった。政府軍の戦略から補給まで、すべての決定は、大阪に置かれた征討総督本営で大久保と伊藤が決定していった。しかも天皇への上奏役として三条も大阪に行ったため、東京に残った政府首脳は大隈と岩倉くらいだった。

 大蔵卿の大隈は征討費総理事務局長官を拝命し、直接経費四千百五十七万円、間接経費も含めると四千五百万円余に上る戦費の調達を担当した。明治時代の一円を今の価値に換算すると約三千八百円なので、その経費の大きさは天文学的なものに上る。

 だが、ここからが大隈の真骨頂だ。

 大隈は賞典禄で潤う華族に頼み込み、その資金で銀行(後の第十五銀行)を設立すると、総額千五百万円の紙幣を発行させ、それを低利で借り入れたが、それでも足りないため、政府紙幣二千七百万円を発行する。

 しかし東京に残った内閣には戦況さえ伝わらず、まさに政府は大阪に引っ越した感があった。そのため四月から五月にかけて、大阪まで出向いて戦況を把握した上で、戦費予算の目途を立てた。

 またこの頃、木戸の病が悪化し、京都の屋敷で病臥していた。大阪の征討総督本営に行ったついでに、大隈は二度にわたって木戸を見舞った。この頃は疎遠になっていたが、かつて大隈の能力を認め、引き立ててくれた恩を大隈は忘れていなかった。

 結局、木戸は五月二十六日、四十三歳で死去する。死因は胃癌だった。その最期の言葉の一つが、「西郷、もうたいていにせんか」だったのは、あまりに有名な話である。


 五月九日の早朝、大久保の執務室でその来着を待っていると、八時四十分過ぎ、靴音も高らかに大久保が入ってきた。大隈は立ち上がり、「おはようございます」と言って頭を下げた。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男はどのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と...もっと読む

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