風立ちぬ』は夫婦間の幸福を描いた小説として再評価されるべきだ

光文社新書noteの大好評を博した、早稲田大学・森川友義教授の連載が光文社新書として発売になりました。この書籍化を記念して、cakesでも全文公開します! 9作目は、ジブリ映画で有名になった堀辰雄の『風立ちぬ』。これはドロドロしてもなければ胸を焦がすような恋愛が描かれているわけではありませんが、実に深い主題が隠されていて…。2回に分けて『風立ちぬ』を取り上げていきます。

先述のとおり、わたしは「恋愛学」「結婚学」というジャンルを構築し、科学的な知見をもとに分析することを仕事にしています。本書はここまで「恋愛学」あるいは「不倫学」から考えてきましたが、この章は視点を変えて考察します。

それは、この『風立ちぬ』がここまで解説してきたどの作品とも似ていない、特異な恋愛小説だからです。何が特異かというと、恋愛というよりも「結婚」に重きをおいた内容だからです。

この作品で問われているのは、夫婦間における「愛」と「幸福」です。読者のみなさんが結婚されているならば、この2つがどれだけもろく貴重なものかご理解いただけると思いますが、そんな愛や幸福を考える今回のよりどころは、「結婚学」になります。

結婚学とは、結婚にまつわるメカニズムを解明する学問です。結婚市場とはどのようなしくみで成り立っているのか、結婚生活とはどういうものであるか、離婚とはどのような経緯で至ってしまうのか、幸福な結婚を維持するために何をしなければならないのか等々を研究します。

この『風立ちぬ』は、夫婦のあり方や夫婦の幸せを描いたものの中では随一の傑作と言ってよい小説です。相手を愛するとはどういうことなのか、幸せな結婚生活のためにはどうしたらいいのかについて、有益な知見にあふれています。これから結婚する人や、現在の結婚生活に悩んでいる人にとくに推薦したい作品です。

ただし、難解な箇所が散見されます。多分に詩的であり、5W1H、つまりWho(誰が)、When(いつ)、Where(どこで)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように)が明確にされていないので、しっかり読まないと理解できない作品になっています。

必要な情報を随時補足しながら「あらすじ」をまとめましたので、まずは小説の全体の流れを把握していただけたらと思います。

堀辰雄自身が投影された小説

『風立ちぬ』は、「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章構成です。

「序曲」は、秋近くのある日のできごとから始まります。主人公は「私」と「節子」の二人。「私」は小説家であり、堀辰雄本人と目されます。つまり「私小説」を思わせる作品ということになります。

二人は、夏の軽井沢で偶然に出会った仲です。この日、「私」は絵を描いている節子と白樺の木陰で語り合っていると、どこからともなく風が吹いてきます。「私」はふと、20世紀のフランスの詩人・小説家であるポール・ヴァレリーの詩の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも」が口をついて出てきます。

2、3日後、節子は迎えにきた父親と帰京しました。「私」は自分の仕事の見通しがついたら、節子と結婚することを約束します。

第2章「春」は1年半後の3月。「私」は節子と父が住む家を訪れます。「私」と節子はすでに婚約していますが、節子は結核の治療としてF(富士見高原)のサナトリウム(結核専用の療養所)に転地療養に行くことになります。「私」が療養先の院長の知り合いということもあり、節子に付き添ってサナトリウムで生活する方がよかろうということになりました。

節子の病気は一進一退でした。しかし、「私」と婚約したことで生きる気力と希望が湧いてきた節子は、「私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね」と静かに決意します。4月下旬、実家を離れて節子と「私」はサナトリウムに向かいます。

第3章の「風立ちぬ」。節子は病棟2階の第一号室に入院し、「私」は付添人の隣室に寝泊まりすることにしました。院長から節子の病状は「病院中でも二番目くらいに重症」だと告げられました。節子は安静を命じられて寝たきりです。とはいえ「私」は限られた時間の中で節子と一緒にいられる幸福を感じます。

夏が終わり秋になりました。病院の中でもっとも重症だった17号室の患者が亡くなります。さらに1週間後には別の神経衰弱の患者が林の中で縊死します。節子が2番目に重症と言われていた「私」は、「思わずほっとしたような気持」になりました。「私」は節子に二人のことを小説にしたいと言いました。「おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、—皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ」を小説という形で残したいと告げました。二人は自分たちが幸福であることを確認し合います。

第4章は「冬」。ここから日付が入り、1935年10月20日から始まる日記形式になります。「私」は節子の世話をしたり、小説の構想を考えたりする日々でしたが、主題を節子と「私」との「生の幸福」と定めました。二人の幸福について考えながら、手帳に日記をしたためます。

節子の病状は悪化し、徐々に気弱になっていきます。「なんだか(家に)帰りたくなっちゃったわ」とさえ言うようになりました。

最終章の「死のかげの谷」。日付は1年後の1936年12月1日、「私」は節子と出会ったK村(軽井沢)で小屋を借りますが、すでに節子は亡くなった後の話です。その小屋で1年ぶりに手帳を開き、節子との思い出を追想しようとします。教会に行ったりリルケの「鎮魂歌」を読んだりします。思い出を振り返る中で、節子との日々がどれだけ幸せなものだったか、そして自分がどれだけ節子の愛によって生かされてきたのかを理解するのでした。

堀辰雄と『風立ちぬ』

堀辰雄は、1904年の東京生まれ。戦後に48歳で亡くなっています。1925年に東京帝国大学文学部に入学し、同人誌を立ち上げ精力的に小説を執筆するようになりましたが、肋膜炎の発症など病気がちで休学をしたため、卒業したのは1929年、25歳のときのことでした。

著名な作品としては『聖家族』『菜穂子』『美しい村』などがありますが、恋愛や結婚の観点からは、この『風立ちぬ』がいちばん秀逸です。2013年のジブリ映画『風立ちぬ』もこの作品から着想を得たとされています。『風立ちぬ』は章ごとに出版された小説で、「序曲」と「風立ちぬ」は1935年、最後の章である「死のかげの谷」は1938年に発表されています。完成まで3年を費やした作品でした。

なお、節子にはモデルが実在し、本名を矢野綾子といいました。彼女と堀辰雄は1933年夏に軽井沢で知り合い恋に落ちていますが、実はその出会いについては別の作品である『美しい村』の「夏」の章以降に書かれています。ですから、実は『美しい村』を読まないと『風立ちぬ』が十分に理解できないという構造にもなっています。『美しい村』における出会いの場面を要約すると、29歳の「私」が、軽井沢で油絵を描く綾子を思わせる「少女」と出会います。二人の距離がしだいに縮まっていくにつれ、会話を交わしたり、一緒に散策するようになったりもします。軽井沢滞在中に、二人の間に恋愛感情がしっかり育くまれていった様子が描かれています。

現実の堀辰雄は、1934年9月に綾子と婚約します。しかし、綾子は胸の病状を悪化させて翌年の7月にサナトリウムに入院し、その年の12月6日に他界してしまいます。『風立ちぬ』は、この1933~1935年までの二人の関係にヒントを得た作品であり、綾子への鎮魂歌であり、悲歌でした。

この点に、当時の若者にこの小説が支持された理由の1つがあると考えられます。『風立ちぬ』が完成した1938年は、まさに第二次世界大戦(1939~1945年)の影が忍び寄っていた時期であり、この作品の「死」や「離別」といったテーマは切実なものであったからです。

なお、小説内に出てくる「風立ちぬ、いざ行きめやも」とは、ヴァレリーの詩集『海辺の墓地』の一節を堀が意訳したもので、「風が吹いた。さあもっと生きようか」といったような意味です。

『風立ちぬ』における最頻出語

この作品を理解するにあたって、まず小説の中でどのような言葉が多用されているか、数量分析をしてみました。どの語がどれくらい使われているかで、堀辰雄が何を強調したかが理解できるからです。その結果が図9-1になります。

「幸福・幸せ」が37回でもっとも多く、続いて「死」35回、「生・生きる」29回、「夢」23回となっています。回数はずっと減りますが、「消(える)」が15回、「失(う)」「悲しい・悲しみ」が10回ずつ、「寂(しい)」8回、「人生」8回、「愛・恋」が7回となっています。なお、「私」と節子の未来につながる言葉である未来・将来・希望といった言葉は一度も使われていません。これは節子との関係が過去と現在のみであり、未来にはないことを暗示しています。節子の「死」が必然である以上、「悲しみ」や「寂(しい)」が多く使われていることも自然です。また、サブリミナル効果としてか、「消(える)」「失(う)」という言葉が小説中にちりばめられていることも目を引きます。

唯一、未来を指向する言葉として「夢」がありますが、作中ではあくまでも実現が難しいものとしてとらえられていて、決して希望につながるイメージでは使われていません。したがって、用語の頻度という観点からは、『風立ちぬ』のメインテーマは、人生における「生」と「死」をどう見つめるかであり、「生」が続く間のつかの間の「幸福」とは何かということになります。不可避な「死」があるからこそ「生」が輝くのであり、『風立ちぬ』の場合は、その「生」の中心に節子との「幸福」が存在するということです。いつ終わるとも知れない二人の時間をいかに幸福に生き、実感できるかこそが、堀辰雄が書きたかった主題だったわけです。

たしかに、作品中には節子への愛情があふれています。しかしその愛情は静かな激しさなのです。恋愛バブルは通常、情熱的なものですが、堀による恋愛感情は、節子の死という厳然たる恐怖を落ち着いて受け入れたうえで、いかに節子との幸福な時間を共有し続けられるかを丁寧に描いているわけです。どれだけ節子を愛し愛されることができるのか自問自答しながら、小説内の時間は静かに流れてゆきます。

なお、抽象的ではありませんが、最頻出語は「雪」で、55回も使われています。タイトルの「風」は、実は27回しか出てきません。雪は「白」であり、色彩的に「死」=黒の対極にある存在として、象徴的な意味をもたされていることを追記しておきます。

夫婦における「幸福」について

厳密に言えば、「私」と節子の二人は結婚に至っていませんので、この作品で描写されているのは婚約についてです。ただし、サナトリウムでは一緒に暮らしていましたので、二人の関係は夫婦とほぼ同じであると言ってよいでしょう。したがってこの作品で参考になるのは、どのようにしたら「私」と節子のように、夫婦間で愛し合うことができ、幸福な関係を築けるかという点になります。

これは、たいへん難しいテーマです。結婚している人ならば、肯いてくれるはずでしょうが、そもそも愛し合うことが難しいし、「幸福な関係」を維持していくことはさらにたいへんです。

以下は、「私」と節子のように、

夫婦の幸福な関係をどのように維持できるか?

をテーマに、深く考えていきたいと思います。

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