同性愛と処女性—『伊豆の踊子』の理解にはこの2つが鍵となる

光文社新書noteの大好評を博した、早稲田大学・森川友義教授の連載が光文社新書として発売になりました。この書籍化を記念して、cakesでも全文公開します! 7作目として、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成の『伊豆の踊子』を考察します。爽やかな恋を描いた名作として名高い本作ですが、どうにも一筋縄ではいかぬ難解さがあり…。さらに作品の本質に迫る分析で、『伊豆の踊子』編、堂々の完結!

(前回からのつづき)

川端の「異性愛」へのめざめ

ここでぜひ知っておかなければならないのは、作者である川端の性的指向です。実は当時の川端は同性愛者でした。これは川端自身が自作の中で告白しています。

この事実を前提に『伊豆の踊子』を読むと、劇的に解釈が異なってきます。たとえば最後の場面では、船の中で少年(受験生)と知り合って、彼の「学生マントの中にもぐり込ん」で、「少年の体温に温ま」るという描写があります。季節はまだ11月、場所は温暖な伊豆にもかかわらずです。異性愛者では通常考えにくい行動です。

実際に川端が愛した相手は小笠原義人という1歳年下の男性でした。旧制中学の寮の先輩後輩の間柄で、川端は小笠原との関係を「初恋」だとしています。川端が東京に移って一高に入学すると遠距離恋愛になり、手紙のやりとりで交際関係を維持していました。川端が伊豆へ旅行したときも文通していました。伊豆旅行の数ヵ月前には、川端は大阪に戻って小笠原の部屋に泊まっています。

このような観点から再度『伊豆の踊子』を読むと、新しい解釈が見えてきます。薫への恋心の意味するところは、異性にも恋することができたバイセクシャルである自分の発見だったのです。川端にとってはコペルニクス的大転回です。伊豆で踊子を見かけて胸が高鳴った瞬間こそが1つの大きな事件であり、川端にとって重要な転機であったと読みとくことが可 能になるのです。

すると、薫の見かけのイメージも修正しなければならなくなります。「私」は薫を「凛々しい」と表現していますが、これは中性的な美しさということになりますし、体型も女性らしいふくよかさというより、ダンサーにしばしば見られる引き締まった筋肉による健康美のイメージに転換しなければならないのです。もしかすると、薫の外見に小笠原の面影が映ったのかもしれません。

川端は伊豆旅行が終わった後は本格的に異性愛にめざめたようで、友だちとともにナンパに出かけるようになりましたし、「ちよ」という女性を好きにもなりました。さらには、彼女と婚約までしています。

というわけで、薫との出会いが、「私」=川端の恋愛行動の大きな分岐点だったという意味において、『伊豆の踊子』は川端文学の重要な作品であるという解釈も成り立つのです。

川端は「処女」を賛美しているのか?

三島由紀夫は、川端文学は「処女の主題」をもっていると評しました。『伊豆の踊子』ばかりでなく、『眠れる美女』『篝火』等でも処女の女性を好んで描いているので、川端の作品では「処女性」が重要なテーマの1つであり、賛美していることは明ら かです。

ただし、性的な対象としての処女に価値をおいての描写ではなく、肉体関係を経験しないことによって宿る「純粋無垢」といった感覚的な要素をもつ存在として、良しとしています。『伊豆の踊子』でも、薫が処女であると知った(思い込んだ)ことで、性的な興味を失い、好意を純粋無垢な存在へのいとおしさに変換していきます。

そもそも処女であるかどうかは、医学的な見地では立証するのが極めて難しいもので、本人の自己申告か、処女特有の行動によって推測するかのどちらかです。川端の場合は、薫の行動によって処女であると確信したわけですが、こうした処女への賛美が正しい姿勢なのかどうかはわかりませんし、ここではその是非は問わないことにします。

ただし、英国のジャーナリストであるクリフォード・ビショップが『性と聖』で指摘するように、歴史的には処女性の喪失は「自己の根本的な変化」であり、また「処女や童貞は汚れを知らず、いまだ可能性に満ち、とりわけ少女の場合には純粋無垢で完全な存在」とされてきました。現代のわたしたちの感覚でいえばかなり時代遅れの感がありますが、川端はこの立場をとっており、当時としてはこれは一般的な考え方だったのです。

処女性について「進化生物学」から考察する

なお、処女性へのこだわりは、大正期の日本だけに限りません。時間軸、地域に関わりなく、普遍的にこうした考えは広く世界で見受けられました。たとえば、古代メソポタミアの文献にも「花嫁は処女に限る」という記述が見られます。また歴史家のハンナ・ブランクは、女性が結婚前に処女を喪失することによって「数千年間、非難されたり、攻撃されたり、嘲られたり、排斥されたり、結婚を禁じられたり、縁を切られたり」してきた歴史があると指摘しています。したがって、男性が結婚前に処女を求めるのは、文化特有のものというよりも、わたしたちの遺伝子に根差した欲求と解釈できます。

せっかくですから、この「処女性」について恋愛学の知見にもとづいて徹底的に考えてみたいと思います。長く処女や童貞のままでいる方が増えている最近の傾向からもぜひ押さえておきたい知識です。

まず、なぜ男性は女性の処女にこだわるように遺伝子にプログラムされたのか、という疑問です。これは進化生物学の観点から説明できます。

わたしたちの遺伝子は長い間の進化によって形成されてきました。百年千年という単位ではありません。数万年という単位です。最後の氷河期が終わったのは今から約1万2000年前ですが、当時と現在のわたしたちとで、遺伝子はほとんど変わっていません。狩猟採集時代に最適になるようにつくられた遺伝子を現在でも引きずっているのが現代のわたしたちなのです。したがって、男性が女性に処女性を求める欲求は、このはるか昔に形成されて以来、現在に受け継がれてきたものだということです。

ここで重要なのは、男性は女性の卵子に結合させる精子を提供し、女性のほうは妊娠して出産するという身体的な違いがある点です。女性は生まれてきた赤ん坊が自分の子どもであるという確証が100%あります。(病院でとり違いが生じない限り)絶対に間違えようがありません。

ところが、男性は出産をしないので、自分の子どもであるという確証がないのです。現在では医学が発達し、遺伝子検査によって生まれた赤ん坊が本当に自分の子どもかどうかを知ることは可能ですが、狩猟採集時代では不可能です。せいぜい顔が似ているとか、ほくろの位置が同じといったような傍証だけで、100%保証されるものではありません。西洋ではこれを称して「Mama’s Baby, Papa’s Maybe.」と呼んでいます。言い得て妙ですよね。

したがって、男性は女性が貞淑で、自分の子どもを産んでくれることを強く求めます。これが処女性が求められてきた根源的な理由です。女性が浮気性であると、排卵期に別の男性と肉体関係をもち、自分の遺伝子とはまったく関係のない子どもを妊娠して出産する可能性があり、最悪の場合、男性には遺伝子をまったく共有しない子どもをそうとは知らずに育ててしまうリスクが生じます。自分が狩猟によって獲得した貴重な食料を投資して育てるわけですから、もし自分の遺伝子とは関係のない子どもだったら、その損失は計り知れません。

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恋愛学で読みとく文豪の恋

森川友義

名だたる文豪たちが小説に描いた恋ははたして「アリ」なのか? 恋愛学を提唱する著者が科学的に分析し、考察する。漱石が描く片想いは納得いかないし、川端康成は処女にこだわりすぎで、 三島由紀夫は恋愛描写が下手!? 従来の文学研究にとらわ...もっと読む

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rakkoannex https://t.co/5N8UJvWwMr 著者の主張1は、《文化特有というよりも進化生物学・遺伝子的に、男性は処女にこだわる》。だけど、主張2は《時代を経るほど… https://t.co/Lwb7qGyOye 25日前 replyretweetfavorite