この時、捕らえられて拷問を受けた中原尚雄少警部は、「西郷と刺し違える覚悟で来た」と言ったため、私学校党の者たちは、大久保や川路が西郷暗殺を命じていたと思い込んだ。
これにより私学校党を中心とした薩摩士族は決起し、二月十五日に北上を開始した。
かくして熊本城をめぐる戦いが始まろうとしていた。
「大久保さん、この戦いは人的にも財政的にも、この国に甚大な損害を及ぼします。とにかく戦端が開かれる前に話をつけるべきです」
大久保が紫煙を吐きながら言う。
「君は武士だったろう」
「かつてはそうでした」
「だが、武士であり続けようとは思わなかった」
「時勢を知れば、そうなります」
「世の中にはな、それを知りたくもなく、いつまでも武士であり続けたい者もいるのだ」
大隈がため息をつく。
「それを正しい道に導くのが政府ってものではありませんか」
「そうだ。だが時勢に順応したくない者に、いくら正しき道を説いたところで、聞く耳は持たない」
「ということは、そういう輩を滅ぼすことで、それに続こうとする者たちへの見せしめとするのですか」
「そうだ。もはやそれ以外に道はない。かつて君は——」
大久保が鋭い眼光で見つめる。
「自分たちの故郷が蹂躙されても、私に文句一つ言わなかった。だが此度は、私の故郷が灰燼に帰す。そして私は二度と故郷に帰れなくなるだろう」
鹿児島の英雄の西郷を討てば、大久保は鹿児島の仇敵とされる。
大久保は、自分の番が来たと言いたいのだ。
話している内容とは対照的に、大久保の声音は冷静だった。
「それでもこの国のために、私は西郷とその与党を葬り去らねばならない。君が江藤君を見捨てたようにな」
「そのお言葉は心外です」
「それはすまなかった。前言を撤回しよう。だがこの国のためと思えば、友だろうが切るという気持ちは、君と同じだ」
大隈は江藤を切ったわけではないが、その言葉をのみ込み、大久保に問うた。
「それほどの覚悟をしてまで、戦うと仰せなのですね」
「そうだ。私は君より彼らのことをよく知っている。彼らを野放しにしておけば、必ずやこの国の禍根になる。私が強い権限を持っているうちに、やらねばならぬことなのだ」
大久保は有司専制体制が整った今だからこそ、故国の朋友たちを討ち、この国を前に進めねばならないと思っているのだ。
——見事な覚悟だ。
そして、それは無二の親友の西郷を討つことでもある。
「西郷さんを殺してもよいのですね」
大久保が苦渋に満ちた顔をする。
「そうだ。本来なら吉之助さんを殺すだけでよかった。だが今となっては、それは困難だ」
「大久保さんは、西郷さんの暗殺を川路大警視に命じたんですか」
その噂は一般市民にまで流布していた。
「そんなことは断じてしておらん」
「そうだったのですか。それは残念だ。西郷さんを暗殺した方が、戦争をやるよりは、はるかにましでしょう」
大久保が目を剥く。
「君は合理的な男だな」
「そうです。もっと早く暗殺を命じるべきでした」
確かに大久保は西郷暗殺を命じていないかもしれない。だが大警視の川路利良が、大久保の意思を忖度して刺客を送った可能性は高い。
——だがそれは失敗し、私学校党を怒らせることにしかならなかった。いや、待てよ。
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